27 - 映画『無垢の祈り』を観た

 当代一のペド映画である。

 原作は平山夢明の光文社文庫から出ている文庫『独白するユニバーサル横メルカトル』に収録の同名作。出世作とのことで、私もこれで平山夢明の名を知った。露悪的なエログロナンセンスのために人を選ぶ作風であり、昨今のイヤミス流行り補正でゲタを履かせても、映画化原作には向いていない。

 さて、最低最悪のペド野郎どもにこの映画『無垢の祈り』を勧める理由は、突き詰めればたったひとつ。撮影当時9歳の子役が主演しているという厳然たる事実である

 

『無垢の祈り』 - 上映 | UPLINK

【STORY】 
学校で陰湿ないじめを受ける10歳の少女フミ。家に帰っても、日常化した義父の虐待が日を追うごとに酷くなり安息の時間もない。母親は、夫の暴力から精神の逃げ場をつくるべく、新興宗教にいっそうのめり込んでいく。誰も助けてくれない――フミは永遠に続く絶望の中で生きている。
そんなある日、自分の住む町の界隈で起こる連続殺人事件を知ったフミは、殺害現場を巡る小さな旅を始める。そしてフミは「ある人」に向けて、メッセージを残した――。

 

  いや、最高ですね。

 もう少し話の筋を紹介すると、映画の冒頭でフミは見ず知らずのペドフィリアのおじさんに淫行を強要されます。この嫌がり方がものすごくリアルなんですわ。変態の仕業としか思えない。路地裏で台の上に座らされ、足を開かれ、スカートを抑えて抵抗してカット。そして次のカットで、右腕を不自然に動かさずに早足で歩くフミの姿。開けているが人気のない、工場街のバス停のベンチに座り、フミはおじさんに押しつけられた黄色いハンカチを取り出し、右手に付着した謎の白い液体を拭う。

 お前これ、これ、こんなん9歳に演じさせていいのか、いいのかっていう話ですわ。やべーよ。それに黄色いハンカチって何だよ。幸福の黄色いハンカチかよ。ナメてんのか。最高!しかもこの黄色いハンカチを押し付ける変態ペドフィリアの変態トークがマジで変態すぎて最高でぼかぁもう……

 いや、最高ですね。

 家では義父に拳とチンポで暴力を振るわれ、母親はカルト宗教狂い。立てばビンタ座ればレイプ外を歩けばペド手コキな地獄に落とされたフミは深い絶望の底にいます。そして街に潜んでいた連続猟奇殺人鬼「骨抜きチキン」がそのペドフィリアを偶然にも殺したことで、フミは骨抜きチキンに憧憬を抱き、殺人事件の起こった現場に足を運び「アイタイ」というメッセージを残す。フミの抱いた「無垢の祈り」とは一体……? という筋書きです。

 いや、最高ですね。*1

 実際に9歳の少女を主演に据えて性犯罪や性的虐待を演じさせることで、エロ・グロ・ナンセンスを文芸の領域へと叩きつける力を持った映画化だ。撮影地川崎の不気味さも実にいい。昨今の工場夜景ブームに中指立ててるという見方も、穿ち過ぎではないだろう。

 映画の根底を流れているのは、救われなさへの深い怒りだ。祈らずとも愛されるべき子供が、救いを求めて祈らなければならないとしたら、それは悪のなせる業である。川崎の不気味な工業地帯を大きく映したショットの数々は、救いの手を差し伸べなかった大勢の人々を象徴するとともに、観る者一人ひとりを糾弾するのである。なぜこの子にこんなことを言わせた、と。イグ・ノーベル賞のミス・スウィーティー・プー然り、あの年代の少女が発する言葉に特別な力があることは間違いないのだ。

 とにかくこんな脱法ロリ、観られる時に観るべきだ。くたばれ、ポリコレ!

 

*1:こんなことを言うと性犯罪を肯定しているように誤解されるかもしれないが、フィクションを好んで消費することとその行為を肯定することは全く別であると記しておく。

26 - カツカレーうどん定食との遭遇

 秋迫る10月のある日のことでございます。

 わたくしはゆえあって、死国は、うどん県の属州であるとある土地へ足を踏み入れました。その県に暮らす人々は、夏になるとうどん県を指して「あいつらは我々の県の水を搾取してうどんを茹でてやがる、許せない」と口々に申します。水のことは水に流せぬのですね。

 水に流したいような仕事のため、わたくしは車で田舎道をひた走っておりました。道沿いにはケーズデンキ、かつてハローマックだったもの、巨大な駐車場を備えたコンビニ、寂れた中古車販売店、コイン精米機――そんな典型的な田舎の風景で、ふと、うどん屋の看板が目に入ったのです。

 先に申しましたように、わたくしが訪れたのはうどん県ではありません。ですが、まあ、いいだろうと。ほとんど始発の新幹線に飛び乗っての旅路でございましたので、ファミレスやファストフード、ラーメンのたぐいは喉を通る気がしなかったのです。うどん。いいじゃないか。というか、お前さんがたもうどん茹でとるじゃございませんかと。思ったわけです。

 そこで、わたくしは遭遇してしまったのです。懐かしくもおぞましい、カツカレーうどん定食に。

 

 話は変わりますが、『メダロット3』というゲームをご存知でしょうか。

 わたくしも少年時代には熱中したものでございます。ずっとカブト派でした。2から始めたので怪盗レトルトの正体がまるでわからず、使うメダロットの卑怯さも相まって本気でクールに見えたものです。いや、思い出しますな。劇伴鑑賞モードでゲームボーイにイヤホンをつないで、怪盗レトルトのテーマを無限に聴きながら漱石を読むような少年時代でした。

 メダロッターなら、こんな前置きも不要にございましょう。

 登場するのです。カツカレーうどん定食が。

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 店内はそれほど混雑しておらず、わたくしはひとり、四人がけのテーブルに腰を下ろしました。御期待に添えず申し訳ございませんが、わたくしが注文したのは、ぶっかけうどんと小さい親子丼のセットメニューでございます。税込み600円。デフレーションでございます。

 半分ほど平らげた頃、隣のテーブルに、作業着姿の中年男性が座りました。そして注文しました。

「カツカレーうどん定食」

 

は??????

 

天領イッキだぞ?????

 

 カツカレーうどん定食と言えばメダロットメダロットと言えばカツカレーうどん定食。そんな注文を隣で聞いてしまって、止まることなどできましょうか。天領イッキですので、こう考えます。

 カツカレーうどん定食とは、一体何なのか?

 

 1.カツカレーと、かけうどんのセットである

  これが一番オーソドックスでしょう。

  カレーと麺もののセットは、町の食堂やSA等でよく目にします。

 2.カツと、カレーうどんと、ライスのセットである。

  天下一品スタイル。

  こってりな麺ものと、肉々しいおかずと、ライスで、定食。

  人をダメにするセットです。

 3.カレーうどんの上にカツが乗った、独自メニューである。

  過去に「カツカレー焼きそば」というものに遭遇したことがあります。

  焼きそばに、カツを乗せ、カレーをかけたものです。

  この「カツカレーうどん」も、似たようなものだろうと。

  定食というからには、ライス味噌汁漬物もついているのでしょう。

 

 さて。

 心がメダロッター時代に還ったわたくしの箸は止まり、刻一刻と時間は流れていきます。作業着姿の男性は新聞を読んでおります。日経新聞でした。インテリでございます。わたくしも、取引先へ向かわねばならない時間が近づいておりました。

 メニューをもう一度確認します。カツカレーうどん定食は、確かにございました。ですが、写真がありません。「カツカレーうどん定食」としか書かれておらず、内容はわかりません。

 すると、店員さんがおいでになりました。おお、あれなるはカツカレーうどん定食。

 

 汁がない。

 皿に盛られたうどんの上に、カツカレーがかかっている。つまり、ぶっかけであります。少なくとも、わたくしの知るカレーうどんではございませんでした。ショックを受けました。三通りの予想を上回られたわたくしは敗者でした。天領イッキではありませんでした。

 思わず肩を落とし、わたくしは店を後にしました。今、あの店をGoogle検索で探していますが、見つかりません。そして明日も、メダルを抜かれたティンペットのような人生が続くのでございます。

 

 

25 - 尾頭ヒロミ(『シン・ゴジラ』)のノートPC

 シン・ゴジラ、おもしろいですね。特に市川実日子さん演じる尾頭ヒロミがよかった。お言葉ですが既に自重を支えている状態と考えます。

 よかったので、彼女の使っていたノートPCを探した。

 

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 そのため(だけじゃないが)に4回観て、確認できた特徴は以下の通り。

 

Panasonic

・天面の形はLet's Noteに典型的なそれだが、色は黒

・左側面に青色のD-Sub

・右側面にSDXCスロット、DC-in

・テプラなし

 

 では、Panasonic公式サイトからこれらに当てはまるモデルを探してみよう。

http://panasonic.jp/pc/

 

 上位から見ていくと、LXは側面の仕様が合わない、SZは(私の見間違いでなければ)右側面に通風口があるため違う、MXはD-Subが右側面にあるため違う。

 すると、残ったのは10.1型のRZ5である。外観写真を見ても、左側面にD-Subがあり、右側面にSDXCスロットとDC-inが配されている。

 だが、これで決まり!と思いきや、大問題がある。

 レッツノートRZシリーズは、これまで黒のラインナップがなかったらしい。元来黒はメーカ直販の上位機種の証だったようだ。そして、RZに黒が追加されたのは2016年夏モデルから。以下の記事によれば、出荷日は7/28である。

 

レッツノート2016年夏モデル。20周年記念の特別モデルが登場 - PC Watch

レッツノート20周年記念モデル特設サイト | パナソニック公式通販サイト - Panasonic Store

 

 これでは撮影時期に全く合わないのだ。

 さて、これはどういうことなのだろう。

 

1. 見間違い

2. Panasonicが自社商品PRのため一般販売に先行して貸し出した

3. 調べきれない別モデル

 

 大変申し訳ないが1.の可能性が高い気がする。特に左側面はSZシリーズくらいシンプルだったようにも思う。2.だったらロマンがある。3.だったらレッツノートオタクの登場を乞うしかない。

 それにしても、税込みで35万円にもなるノートPC。テプラがどこにもないということは恐らく私物という設定である。コンプライアンス、セキュリティ上の問題はさておくとして、35万のノートPCを平然と使う課長補佐。うーん、金持ってやがんな国家公務員。

24 - シン・ゴジラとシネマスコープ

 中身に触りたくないので予告編に出ているカットを用いてシン・ゴジラの素晴らしいところを伝道することにした。中身の話をしたくないので画面の話をする。

 そこでこのTVCMだ。

www.youtube.com

 よろしいか、YoutubeやTVで観ていてもすさまじいワンカットだが、劇場で見るとこのカットは更に凄い。なぜか。

 

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 車窓から撮影されたような映像。まず最初、ゴジラはフレームの左側にいる。この時、車は右から左へ走っている。

 

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 撮影者がゴジラの真下へと潜り込んでいく。するとゴジラはフレームの真ん中に移動する。ここで、人間の視点を用いるモキュメンタリー的な演出は見せかけに過ぎず、実はさらに巧妙な演出が潜んでいることに気づく。もしもモキュメンタリー調を徹底するならばカメラは揺れるはずだし、また、撮影対象であるゴジラが次第に右へ動いていくのはおかしいのだ。

 

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 最後。ゴジラは完全にフレーム右端へと移動している。身を乗り出して撮影しているかのような臨場感。それだけではない。

 このとき、観客の目線はシネマスコープの横に広い画面を左から右へと見事に横断させられるのだ。これによって初めて、作中世界への没入感が得られる。Youtubeではこれは無理だ。映画館へ行って、巨大なスクリーンを見上げて初めて、この演出は力を持つ。きっと誰しも、画面の主役たるゴジラに目を奪われ、左から右へと、まるでこの映像を撮影したのが自分であるかのように目線を動かすことだろう。映画館の狭い座席に座ったままで! これぞ体感だ!

 シネマスコープシネマスコープである意義を存分に活かしている邦画など数えるほどしかない。洋画に目を移してもその数は少ない。対してシン・ゴジラは、このカットだけでなく、常にスクリーンの四方八方へ観客の目線を誘導する仕掛けが施されている。

 

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 空撮では奥へ。そしてテロップで手前へ。*1縦方向への視線の誘導に気を配っていた最近の映画というと、真っ先にスター・ウォーズ/フォースの覚醒が思い浮かぶ。ちとCGで負けるがあれとタイマン張れるレベルである。

 

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 シネスコサイズは!全部使え!!とばかりのショットだ。

 

 思えば予告第一弾では東宝スコープのロゴが使われていた。知らなかったのでGoogle先生に訊いてみたところ、あれは「シネマスコープ」という名称が商標だった時代に同じアスペクト比を使っていることを示すためにあったのだとか。

 ここからは半分憶測である。

 シン・ゴジラは、映画館で映画を観ることに特有の快楽に極めて誠実な映画であると感じた。大きな画面で観客の視線を巧みに誘導することによる、ただ画面を眺めている以上の没入感、シネマスコープの快楽である。そして、その快楽は、世代をたやすく越えるのだ。東宝スコープロゴが出ていた時代も今も、姿形は違えど同じゴジラを見上げている。

 私は、映画館で冒頭のカットを目撃した時、予告編のロゴや自分がかつて出会ったゴジラ庵野秀明が以前に岡本喜八との対談で語っていたシネマスコープの良さ、日本を代表する娯楽が銀幕への帰還を果たした実感などが一斉にこみ上げてきて、思わず落涙してしまったんですね。

 いや本当にね、何が3Dだという話なわけですよ。フィルムメーカーの誇りを見せつけられるようなシン・ゴジラでした。

 ✌('ω')✌最高~!

*1:力技すぎると思わんことはない。

23 - ソーシャルゲームやめた

 ソーシャルゲームをやめました。

 きっかけは特にありません。理由はうまく説明できません。ただ、アンインストールした瞬間から、どうしてあんなにも熱中していたのかがわからなくなりました。

 インストールしたのは、確か出張先のホテルでした。あまりにも激しく理不尽な労働に疲れ果て、少しでも労働以外の世界に触れなければ頭がおかしくなるという危機感があった気がします。耐え続けるだけの日々。成長ではなく慣れ。両肩にのしかかる停滞感の中で、このままではダメだという抗いがたい衝動が生まれました。そして、この世で風俗と競馬の次に愚かしいと定義づけていた遊びに手を出してしまったのです。いえ、嘘です。スクストのイベント限定コスチュームの大正ロマン服に脳を破壊されました。

 別に世間の多数が知らない遊びなら何でもよかったように思います。映画であろうと競馬であろうと、車でもバイクでも、読書でもアルコールでも、薬物でも何でもいい。ただ、Twitterでつきあいがある人たちが楽しそうに遊んでいたのがスクストだったので、スクストに行き着きました。

 ここははっきりさせたいのですが、スクストは本当に楽しいゲームです。着せ替えは最高だし、資材管理は要らないし、イベント時期の拘束時間が長いのは嫌だけど、センスや技術を問われないのが本当に快適だった。命かけずに気楽にやりたいんですよ、ゲームって。何より掌の中に別世界があって、プレイヤーを無条件に慕う女の子たちが画面の向こうで息づいているかのような演出がたまらなかった。だいぶクズっぽい言い方になりますが、若い女にチヤホヤされてダメになることほど楽しいことってこの世にないんですよね。

 累計すれば10万円近く課金もしたし、自分の生活に合わせてパートナーの服を着替えさせるような、わざわざ没入感を深める遊びもしていました。イベントを走ることもそう苦ではありませんでした。上位報酬を手に入れることもあり、戦力が整わない、かけたお金や時間が報われないという苛立ちも、他のプレイヤーに比べれば少なかったように思います。でも、毎月のイベントともにやってくる見せかけの幸福の下には次第に虚無の埃が積もり、やりたくてやっていたそれを、いつの間にかやらなければならないと感じるようになりました。

 事ここに至り、ふと気付きました。私は依存している。これは病である。病であるならば、その原因を取り除かなければならない。

 依存して、病んだままでも別にいいじゃないかとも思いました。でも、病であるという意識からは逃れられませんでした。ある意味それは、別の病であるのかもしれません。正常であるべしという欲求もまた、病に他なりません。

 スクストは楽しかったです。アンインストールする10分ほど前に、着せ替え試行のスクリーンショットTwitterに投稿するくらい、私はスクストを楽しんでいました。やらなければならないという義務感はときどきあれど、やらされているという強迫観念に至ることはありませんでした。

 でも、愛したものを捨てることほど心地よいことはないのです。

 今、スクストを始めてから失った多くのものが自分を手招きしているように感じています。PS4を買おう。PC向けADVゲーム(婉曲表現)をやろう。積んでるKindle本を崩そう。シン・ゴジラの公開も近い。いつか作るつもりで買ったプラモデルの箱も積み上がっている。

 ああ、でも、あのチャンネルは頼れる隊長さんを失ってしまったのだなあ、という悲しみや自責の念が、全くないといえば嘘になります。

 ま、いっか! どうせソーシャルゲームだし!

22 - アメコミ映画の色味について雑感

 色って結構大事で、赤っぽいか青っぽいかで画面が語るものがまるで変わったりする。フルカラーコミックを念頭に置いてる(だろう)アメコミ映画では、全体の色調が結構大事にされている気がしたので、色々実例を探してみた。

 

 まず、何よりも「バットマン ビギンズ」(2005)。

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 たとえ夜のシーンであろうとも、必ず暖色がメインになっている。霧烟る摩天楼の街ゴッサムというイメージがあれば寒色にするだろうところ、これを観た時はだいぶ感動してしまった。冷たい氷のような戦いをするバットマンが温かい色味の中に立っているとは、リアル路線でありながらも、スーパーヒーローを信じている、という主張のように見える。内容もそんな感じだし。修行してたチベットは寒色メインだけどあのシーンにも炎がつきまとっているんだよな。

 

 これから一変するのが、続編「ダークナイト」(2008)。

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 すごいアス比最高。ともかく、とにかく寒色。これがジョーカーの狂気・恐怖、それに同一化していくバットマンという映画のストーリーが投影されていくのがすごいところだった。ヒーローを信じていたように見えた前作からは全く違う画面だし、この画面の力が数多くのフォロワーを産んでしまった、らしい。

 

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 お前ーーーーーーーーッ!!!!!

 

 良心回路を破壊してダークナイトに戻る。この色味の関係を踏まえると、冒頭のジョーカー登場カットでしれっと寒色と暖色が同居しているスゴみにも気付かされる。

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 前作では暖色だった世界が道化王子の登場で寒色の狂気に染まっていく、という読み方もできる。バケモノのような映画である。

 

 さて、近年のアメコミ映画のはやりを決定づけたといわれる「スパイダーマン」(2002)は、やはり暖色だった。

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 ガラスと鉄の寒色ではなくレンガっぽい茶色のビルがたくさんあるニューヨーク、というビジュアルがすごくよかった。というか、当時中学生か高校生だった私としては、タイムズスクエア以外のニューヨークがどうなっているかを、スパイダーマンのビジュアルで初めて知ったように思う。

 キービジュアルからして真っ黄色だし。

 

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 これは「スパイダーマン2」(2004)。やはり暖色である。ドクター・オクトパスと対決する夜のシーンでも、暖色の照明が印象的だった。「スパイダーマン3」(2007)ではサンドマンが出てきて画面を暖色に染めている。すべて、映画の明るい雰囲気をもり立てる役割を果たしている。これが冷たい色味だったり、あるいは色味に気を使わない画面だったら嫌だよなあ。

 

 これが「アメイジングスパイダーマン」(2012)ではこうなる。

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 作風は変わらず明るいが、画面は一転して寒色系に。なーんかサム・ライミ版から変えなければならないという意図だけが先行して、内容との結びつきまで至っていないような印象でした。

 

 「アメイジングスパイダーマン2」(2014)でも傾向は変わらず。

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 エレクトロが青基本だからといってこんなにも青いとは。ただ、アメイジング2ではグウェンとのラブロマンスシーンでこれみよがしに暖色だったりする。

 

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 とはいえ、ラストシーンでは、ビルの影から飛び出したスパイダーマンが寒色の呪縛から解き放たれて色彩豊かに躍動しており、大変によい。終わりよければすべてよし。

 

 では、最近のメインストリーム、マーベル・シネマティック・ユニバースはどうか。

 「アベンジャーズ」(2012)の、かの有名なアッセンブル(性的な意味ではない)シーンがこれ。

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 どちらかというと暖色だが、素の色味の方が尊重されているような。正直にいえばあんまりちゃんと観てないんだけど、色味は周囲の明るさに左右されてあまり統一されていなかったような記憶がある…。

 

 「アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン」(2015)の方が色味としては考え方がはっきりしていた。

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 オープニングアクトは寒色。最後にロキの杖を取るシーンまでは暖色の方がいいように思うが、周辺が雪が積もって寒いから寒色。そして仲間同士が激突するハルクバスターのシーンでは、暗い内容にも関わらず、南アフリカの温かい地域だから暖色。

 つまり内容はどうでもいいのである。さすがだなてめえ。娯楽か。娯楽だ。

 

 一方、同じMCUでも「シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ」(2016)はどうか。

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 IMAXで、フラットな色彩を、右も左もないチーム内対決で使うセンス。白っぽいけど決して寒色寄りではなく、ありのままの色なんだよなあ。

 

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 アイアンマンがリパルサーを撃つとまるで友情の絆が最後に一層の輝きを放つかのように寒色だった画面が暖色に(絶頂)。神か。リパルサー照射をキャップの盾が受け、寒色の画面の中心から太陽のように暖色の火花が散る印象的なカットもあった。しかもあれはスリットの向こう側から撮った画になっているんだよね。

 MCU、娯楽大作としてドンパチ賑やかな作品と、ちゃんと映画を撮ろうとしている作品の落差が結構大きくて、蓋を開けてみるまでどちらなのかわからないオモシロコンテンツになってきたなーと感じます。CAWSからは特に。

 

 ではでは、俺たちのザック・スナイダー監督、「バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生」(2016)はどうか!

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 寒色!!(これなんだよな、という顔)

 

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 暖色!!(そうそう、これでいいんだよ、という顔)

 

 で、ぬか喜びしているとこれが出てくる。

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 見たくない悪夢だけど、暖色!!!(絶望に打ちひしがれる顔)

 ありがとうザック・スナイダー、ありがとうDawn of Justice。

 

 せっかくなので最後に我が国も見ておく。

 お前は誰だ、俺の中の俺!「仮面ライダーアマゾンズ」(2016)だ!

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 う~んダークな色調。物語がやや露悪趣味だから、このくらい暗くてもいいかなって思います。あまりにもわざとらしいといえばそのとおりだし何も言えねえ。TV放送で叩かれないことを願うばかり。

 

 現行ライダー、「仮面ライダーゴースト」はどうか。

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 明るいし色がおもちゃっぽくはっきりしている。あんまり全体の色味どうこうではないところはアベンジャーズ路線ではある。正直中身云々でなしに朝からこのドぎつい色を見ると目が辛い。

 

 ライダーはともかく、急に色味が気になったのは、今年のE3で発表されたというスパイダーマンのゲームが、どうみてもサム・ライミ版の暖色だったからなんです。

youtu.be

 全体に暖色。明るく楽しいけどカッコいいスパイディアクションが楽しめるゲームだといいなあ。PS4買うまである。

 

 以上、昨今のアメコミ映画と色味について。PS4がほしい。

21 - 話を聴けないコミュ強者(東北発☆未来塾 2016年1月 『聴くチカラ』第3週)

 掲題の通り。ちょくちょく視聴している番組であまりにもヤバい光景が放送されていたのでご紹介する。

 

東北発☆未来塾 - Wikipedia

東北発☆未来塾』(とうほくはつみらいじゅく)は、NHK教育テレビジョンNHK Eテレ)で2012年4月6日から放送されている東日本大震災復興支援のための教養番組である。

 東日本大震災で多大な被害を被った東北出身の若者たちが、毎回講師として招かれる各界の著名人らから『未来を創るチカラ』を学ぶという触れ込みの番組です。内容が特に震災とつながらないことも多い。若者が学ぶ系番組の八割がゴミであることはオタクならみんな承知だろうし、カタカナ書きのチカラに気味の悪さを覚えないようなやつは信用できねえ。つまり、毎週正座して観るような番組ではない。

 

第1週「ガンジー和尚の聴くチカラ~傾聴への道は寺から発す~」

新年最初の未来塾は「聴くチカラ」。講師は、宮城県栗原市にあるお寺の住職・金田諦應(かねたたいおう)さんです。震災直後から、延べ2万人以上の被災し た人たちの声に耳を傾け、心のケアをしてきました。まもなく5年、被災者の悩みや不安は尽きません。なぜ、悩みを“聴くこと”が心のケアになるのか?金田 さんの経験からひもといていきます。 

 今月はこんな内容。このところ、受講者が東北出身というだけで、そんなに(ぶっちゃけほとんど)東北と関係ない特集が続いていた。それもあって、これは新年早々『あの日 わたしは』を多少カジュアルにしたような話が見られるかな~?と期待を高めていた。そして、3週目にして、斜め上方向へ裏切られた。

 

第3週「ガンジー和尚の聴くチカラ~言うは易(やす)く “聴く”は難し~」

 1月第3週は、傾聴ボランティアを続けてきた金田諦應さんから、助っ人講師にスイッチしての講義。最終目標は塾生(東北出身の若者たち)だけで仮設住宅に暮らす人たちから話を聞くことであり、そのために必要な傾聴のツボを学ぶため、一同は東北大学の准教授を務める僧侶・谷山洋三さん(43)のもとを訪れる。

 谷山さんは、人々の悩みを『聴く』ことで癒やす、〈傾聴〉のスペシャリスト。『実践宗教学 寄附講座』を担当する彼のもとには、震災以降、宗教を問わず100名以上の宗教者が、彼の持つ理論・ノウハウを学びにやってきたのだという。

 彼が塾生たちに示したスライドには、こんなことが書かれていた。

 

 基本姿勢

・全身を耳にして、あるがままに聴く

・学ばせていただく

・先回りせず、相手のペースに合わせる(伴走者)

・相手の様子だけでなく、相手の発言やその場の雰囲気に対する、自分自身の反応を感じながら、話を聴く

宗教的ケアはリクエストがあってから

 

 誘導したりしないで、相手が話したいことを話してもらうこと。相手に合わせること。相手の本心を感じ取ること。その基本を一通り説明した後、四人の塾生は二人一組に分けられる。一対一での、傾聴の実践演習である。

 まず一組目は、【被災者役】前田ひかりさん(東北福祉大学4年)、【聴き役】坂口歩夢さん(東北学院大学1年)のペア。被災者は津波で家族を亡くし、仮設住宅で暮らしているという設定で、話を聴く。

被「私もね、次、決まったんだよ」

聴「あっ、公営住宅ですか?」

被「うん。そうそう」

聴「すぐ近くのですか?」

被「んー、ちょっとこことはまた違うんだけどね」

聴「あそこの高台のですか?」

被「そうそうそう」

聴「あそこだと……ひとりでも、順序とか」

被「そうそう。いろんなとこから来るからね。抽選だから。私は決まって……でも決まんない人もたくさんいるからね」

聴「そうですね……ラッキーだったのかな」

被「ちょっとね。決まったら落ち着いたところはあるけどね」

聴「安心感はありますよね」

 このあたりで、講師・谷山さんの表情が厳しくなる。そして制限時間の5分を待たずして、話を止めてしまう。

 坂口さん(聴き手役)の言葉が相手に被っていること、相手が話すまで待たないことが問題なのだと谷山さんは指摘した。あなたのそばにずっといる、話を聴くよ、という安心感が相手に伝わらないというのが、その理由だった。

 相手の言葉に被せて合いの手を入れる坂口さんの話し方は、被災者役・前田さんが自分のペースで話すことを妨げている。

 視聴者として見ている分には、坂口さんの話し方に、特に問題があるようには思えない。ごく普通の、どちらかというと内気な若者が、必死になって、相手に安心してもらおうと頑張っている様子が見て取れる。

 言うなれば、純粋だが理論のない善意の否定である。

 これだけでも充分衝撃的な内容だが、本番はここからだ。

 

 続いては、【被災者役】伊藤健人さん(東北福祉大学4年)、【聴き役】久保田紗代さん(早稲田大学4年)のペア。聴き役の久保田さんは、テレビ局への就職が内定している。

 まさに、世間に言う「コミュニケーション能力」の権化である。

聴「こんにちは~。おじいさん、ここの仮設何年くらい住んでるの?」

被「え~」

聴「うん」

被「ここは~」

聴「うん」

被「四年くらいかなあ」

聴「じゃあ被災してからずっと?」

被「ん。津波来てから」

聴「うん」

被「ね」

聴「うん」

被「避難所回って仮設さ来て」

聴「う~ん」

被「四年も経つのかな。四年も経ってしまったんだ、本当に」

聴「結構避難所回ってから来るのかな?」

被「避難所に半月くらいいて」

聴「あ~!」

被「だからそっから、あの」

聴「うんうんうん」

被「仮設住宅作ってもらってね、本当にたくさん」

聴「う~んうんうん」

被「そこさ作ってもらって住んでっからさ」

聴「うんうん」

被「でも一人だからさ」

聴「でもこうして、ね、人もいっぱいいるから。ちょっと、ね、どうなの? 仲良くなった?

被「うん、でも……」

 ここで講師・谷山さんのストップが入った。

谷山「はじめから誘導している。あなたが今やったことはインタビュー。違うからね。はじめっから誘導しているよ。それでは、絶対に辛い話できないから」

谷山「黙って聴いて。とにかく。一生懸命、黙って、本気で聴いて

 イエローカードは開始一分だった。

 本人も半ば無意識なのだろう。久保田さんは、「仮設住宅で長く暮らしているが、新しい場所での新しい絆を得て、辛いことがあっても明るく頑張っている被災地のおじいさん」という久保田さん自身が思い描いた物語へと、伊藤さんの話を誘導してしまっていたのだ。

 はたから見ていると、和気あいあいと言葉を交わしているように見える。だが、久保田さんの高いコミュニケーション能力は、辛かった体験を語りたかっただろう相手の言葉を封じてしまった。癒やされる機会を奪ってしまった。

 コミュニケーション能力の高い人が、そうでない人を善意で傷つける構図はどこでも目にする。言いたいことを言えずに丸め込まれてしまった経験を持つ人も多いだろう。コミュ強者による、相手を黙らせるコミュニケーションは、罪悪にすら転じ得る。震災を題材に取り、被災者と聴き手を模擬的に再現した空間で、社会が陥っている、コミュニケーション能力の信奉という病を浮き彫りにしてみせたことが、驚きだった。

 困惑した様子の久保田さんをよそに、演習は再開される。(ここから老人設定はなくなったらしい)

被「なんだかなーって本当にね。ま避難所さ 比べれば、あれだけど、なかなかね。避難所のこともなかなか思い出せなくなってきてさ」

聴「……」

被「家もどっか行ってしまって」

聴「……」

被「何でこんなことすんのかってね。神も仏もいねえって、あん時だけは思った」

聴「……」

被「だけども、おらだけ生きたっでのは、生ぎろって神様さ言われだんだなっで。今だったら思える」

聴「……生まれできたからね。最後まで生ぎること、それが使命なんだから、うん

被「そうだなー。五十、六十。もっどもっど、んだと思うよ」

聴「ここ来て何年くらい経つんですか?

被「もう四年だよ。震災直後……二ヶ月くらいかな」

 ここで谷山さんから二度目のストップが入った。

 谷山「言ったよね。黙ってって言ったよね。喋るの我慢できないかな」

久保田「私は相槌を……」

谷山「言わなきゃならないか!?

 カットされたがさらにかなり強い言葉があったらしい。次のカットでは、久保田さんの目に涙があった。

 今回は、神様に生かされた、と語る被災者役を慰めるつもりで、まだまだ語ることがあっただろう被災者役の言葉を遮ってしまったことに問題があった。そして、もう満足とばかりに別の話題にシフトしてしまっていた。

久保田「同じ境遇になった時どうしよっかなってのをすごく考えちゃって。その時に、何言われたらいいかな~、と思うと……」

谷山「あなたが思ってんでしょ」

久保田「同じ立場になった時に……

谷山「あなたが思ってんだよ、それ! 同じ立場にはな、れ、な、い! 勘違い!

谷山「その場で話をすることのテーマを決めるのはこっち(被災者役)なの。だから逃げてるってことよ。あなたが逃げてるんだよ。聴く側が」

谷山「言いたいことも言わしてくれない。しかも、もしかしたら本当に聴くべきことも、聴けないかもしれないじゃん。相手に話してもらうんだよ。相手のペースを考えるの。自分のペースじゃない! こうかなーって、全部自分の想像じゃないか! そんなものは。想像で人をコントロールしちゃいけないの

 相手のペースで、相手の話したいことを話したいように話してもらうことは、とても難しい。頭で理解していてもこれが難しいのは、谷山さんの考えでは、人それぞれの生い立ちに原因があるのだという。

 そこで谷山さんは、塾生らに、「自分の生い立ちをできるだけ詳しく書き出せ」という課題を出していた。物心ついてから今に至るまでの出来事を覚えている限りすべて箇条書きにさせたのである。

 傾聴の訓練の後、谷山さんは塾生らに、書きだした生い立ちを見ながらその中に上手くいかなかった原因を探すよう指示する。

 

 坂口さんは、中学時代の人間関係に原因があるのではないかと分析した。コミュニケーションが苦手。自分のことばかり考えているから、いざ聴くことに向かい合うと、何かしゃべらないといけないと焦ってしまう。

 久保田さんは、小学校から中学生にかけての環境の大きな変化が、深刻な話に耐えられない自分の性格を作ったと分析した。小学生のころはクラスの中心人物だったが、中学校に入って僻まれるようになった。だから、相手を嫌な気持ちにさせたくないと思うようになった。一緒にいる時だけ楽しくいられればいいなというベースができてしまったと。

 

 自分への厳しい目を持ち、人々の息遣いを感じ取れ、というメッセージを掲げて番組は終わった。

 テレビ局に内定が決まっている女子大生が、「想像で人をコントロールしてはいけない」と言われて涙目になる光景は衝撃的だった。久保田さんの問題ではない。メディアは、想像で人をコントロールしているのではないか。取材者・番組製作者が頭の中で描いた物語を相手に当てはめ、黙らせてはいないか。

 誰も、同じ立場にはなれないにも関わらず、勘違いの同情で、その場だけを笑顔で収めて逃げていないか。

 広く一般化しうる強いメッセージ性、だけではない。ともすれば、番組を通じて、社会的弱者を取材対象とするときの報道の倫理を問おうとしているのではないか。製作者らの意図を邪推したくなる、気迫にあふれた一本だった。