68 - なぜカレールウは火を止めてから割り入れるのか

 先週の日曜日に大鍋でカレーを作り、5日間にわたって食べ続けた。その時、ふと疑問に思って高分子化学的な学びがと気付きがあったのでまとめる。

 

 多くのカレールーは、箱の裏に火を止めてから割り入れるよう書かれている。しかし我々の直感として、温度が高いほうがものは溶けやすい。これを理論化したものがvan't Hoffの式であり、

 

ln s = -ΔH/R・1/T+C (s:溶解度、ΔH:溶解熱・エンタルピー変化、R:気体定数、T:温度、C:定数)

 

 となる。多くの場合溶解は吸熱反応であるため、ΔHは正の値を取る。つまり、Tが大きいほど溶解度は高くなる。一方、溶解すると発熱する物質の場合は、温度が低いほどよく溶ける。代表的なものは水酸化カルシウムである。

 より細かくいえば、溶解は電離である。たとえば塩化ナトリウムの場合は、水に溶けるとNa+とCl-に電離する。電離する際に周囲からエネルギーを奪う。さらにそれぞれのイオンが水分子に包まれる時に周囲にエネルギーを発する。この収支がマイナスになるため、温度がプラスであるほど溶ける。なお、塩化ナトリウムの場合はマイナス幅が小さく、温度依存性も小さい。物質によって異なるのは、上記のエネルギー収支が物質固有だからである。ナトリウムとカルシウムでは結合が切れるときに必要なエネルギーも、水和されるときのエネルギーも異なる。

 とにかく、直感としての「温度が高いほどよく溶ける」は、低分子化合物の場合は一般に正しいのだ(例外はあるし常に正しいわけではないし自然は複雑)。

 だが、高分子の場合は、ハイ電離、ハイ溶媒和と話が簡単には運ばない。よって、温度を上げればすぐ溶けるという直感に反した現象がしばしば起こる。カレールウを割り入れる時に火を止めるのも、高分子特有の現象が関与しているのだ。

 

 鍵になるのは、小麦粉デンプンの性質である。

 小麦粉に限らず、またデンプンに限らず、多糖類の多くは水を吸うと膨潤し、粘度の高い液体になる。さらに水分量を一定にして温度を上げると、粘度が温度に応じて変化していく。この性質は、加温、時間、粘度をプロットした粘度曲線というグラフで説明される。小麦粉メーカーのWebサイト( 

https://www.flour.co.jp/knowledge/flour/

)から引用する。

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 ひと口にでん粉といっても様々な性質があることがわかる。

 そもそもデンプンとは、多数のD-グルコースがα-1,4グリコシド結合したものとα-1,6グリコシド結合により分枝したものの混合物である。"多数"の程度、つまり分子長と分枝の度合いによって、物性は変化する。厳密に言えば別の物質なのだが、だいたい一緒なので総称としてデンプンと呼ばれているものだ。

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 伸ばしたやつがFisher投影式、六角形のがHaworth投影式。αでなくβ-グルコースがたくさん連なるとセルロースになり、人間はこれを消化できない。Dは光学異性体を示しており、Lになると雪風がジャムだと言う。どちらも大切な記号である。α-1,4グリコシド結合とは、ヘミアセタール位のOH基が下を向いたα位のグルコースの、1番目と4番目を連結したものを指す。

 高校化学と戦闘妖精雪風の話はこのへんにして、小麦粉デンプンのアミログラムに戻ろう。

 膨潤、糊化、ゲル化のとき、それぞれ何が起こっているのか?

 まず、固体のグルコースに水を加えると、分子の隙間へと水が吸い込まれていく。多孔質のデンプンの穴に水が吸い込まれるこれが膨潤の過程である。さらに分子の枝分かれの隙間に潜り込む。これが糊化の過程である。このときの現象をミクロに見ていくと、水とグルコースのOH基の間で水素結合が生じている。OHは結合しているようで、電気陰性度により電子に偏りが生じており、Oはややマイナス(δ-)、Hはややプラス(δ+)になる。グルコースのOHと水のOHが互いに引き寄せ合い、会合することで、弱い結合を生じるのだ。このような結合を一般に水素結合という。

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 この糊化の状態から、さらに温度を上げるとゲルの状態になるとアミログラムに示されている。このとき、ミクロでは、熱により水が振動して水素結合が破壊され、デンプン分子間からやや追い出されることが起こる。そして十分にデンプンの濃度が高いとき、代わりにデンプン分子間の結合が生じるのだ。これがゲル化であり、デンプンにより作られたファジーな網目構造の中に水が取り込まれることで、導水性の低い塊になってしまう。冒頭に紹介したvan't Hoffの式はモデル化されており、このような溶質同士の水素結合のような相互作用は考慮しないのだ。

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 カレールウの話に戻る。温度が高い液中に小麦粉デンプンを豊富に含むカレールウを入れると、カレールウの外側が糊化を通り越してゲルになってしまう。ゲルは導水性に乏しいので、コーティングされたようになってしまってルウが一向に溶けない。

 では、これをどう回避するか。もう一度アミログラムを見てみよう。

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 ゲル化が始まるのは95℃付近から。この温度を避けさえすれば、カレールウ外側のゲル化は起こらず、粒子の隙間が多いだろうフリーズドライのスパイス類(たぶん)が水を内部へ素早く導き、糊化の状態で小麦粉デンプンは分散し、とろりとしたカレーが仕上がることだろう。そう、一旦火を止め、鍋の温度を下げるのだ。

 火を止める目的は温度を下げることである。つまり止めてすぐカレールウを入れては意味がない。で、箱の裏を見てみると、火を止めて5分くらい待って~などと書かれている。科学的に正しい。ポリティカリー・コレクトよりもサイエンティフィカリー・プルーヴン。これだよこれ。

 80℃くらいまで温度を下げ、ルウを入れ、ルウ中の導水と膨潤状態を作るためにしばらく待ち、そしてかき混ぜるといいのではないだろうか。

 そんなことを考えながらカレーを作った。

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 カレーはうまい。