72 - 202204記録

 最近血圧をよく測る。大体下が60前後のエクストリーム低血圧なので、喫煙による血圧の上昇だけが救いである。30分の健康のために30年後の健康を捨てるようなロックンロールな生き方を望んだわけではもちろんない。塩分は毎日メチャメチャ摂ってるのになぜなのか。高血圧で一生降圧剤を飲み続けるよりはマシだけど、常時若干不健康なので困る。

 なお、4/30現在我が家は大掃除の真っ最中であり、今どうにかダンボールの上にPCを置いて、この一ヶ月でちまちま作っていたブログをアップロードしようとしている。屋根付きでシャッターが下ろせるガレージのある家が欲しい。

 

■今月のヘッビロッテダヨーミュージック

 まちカドまぞく2期のOPが1期に引き続き素晴らしく好みで、辻林美穂ばかり聴いていた。調べる過程で色々発見もあった。

open.spotify.com

 

 Wikipediaを参考に、Spotifyにある辻林美穂関連楽曲をひたすら集めたプレイリストを作ったりした。外仕事が多い。バンド「ふたりの文学」の曲と、光学のゲスト?フィーチャード?ボーカルをやったアルバムが特に好みだった。

koh-gaku.com

 

 

 あとはなんといってもときめきランデヴーでしょう。今回も引き続き北川勝利型の渋谷系サウンドでありがたさしかない。こういうの好きなんですよ。

open.spotify.com

■のりもの

 名古屋モーターサイクルショーに行った。本当は4/9土曜日に行くつもりが休日出勤をぶち込まれ、翌10日に死にそうになりながら高速をバイクで90分ほど飛ばしてセントレアの横にあるAichi Sky Expoへ。帰り道に疲れ果ててグロッキーになり、ネオパーサ岡崎で死にそうになりながら喫煙し、知立名物大あんまき(白あん、白あんが一番うまい)をかじる怪しい男になっていた。労働が悪い。

 目的はもちろんHAWK11の実車展示。またがってみると自分の身長(180cm)なら両足ベタ着きだったので、シートの高さは問題なさそう。アフリカツインの流用と聞いてそこが一番不安だったのよね。

 公式ページもできていた。

HAWK 11 | Honda公式サイト

 この公式のスカスカ感はなんなんだ。もうちょっと動力性能とか、ポジションとか、あるだろ、なあ。モーターサイクルショーのオンライン会場から順次コンテンツ移植するのかしら。

 しかし80年代~90年代のヤマハSRX、90~00年代のスズキ・SV1000Sやホンダ・VTR1000Fを彷彿とさせるデザインでビビッとくるものがある。エンジンパワー的にもSVやVTRの国内仕様(馬力規制)と逆車仕様(規制なし)の中間くらいですごくいい感じ。ホイールベースが長めで小回りが利かないことがネガといえばネガだが、まあ、空冷時代のバイクやVTR1000Fのラジエター左右分割がおかしかっただけである。実車を見るとカウル裏の処理が雑なことが気になるのだけど。

 ポジション、エンジンのボアストローク比、減速比、どこを切り抜いても非ツアラー、非スーパースポーツ、非四気筒の隙間を狙い澄ましており、膝を擦らない程度に峠を楽しく走りたい人向けだよな、それってレブル路線と概ね同数のマスを突いてるよなと思う。それでいてノスタルジーデザインに振り切るわけでもなく、外車ほど高価格なわけでもなく……わきわきしてきた、”欲”が。

 それにしてもミラーのつきかたがユニーク。アフターパーツが出次第とりあえずバーエンド化かなと思っていたけど、こうもユニークだとノーマルのままでいい気もしてくる。

 2000年前後に憧れのバイクがあり、当時は手が出ず、今は財力をつけた人の、2台目以降のバイク……あのー、自分、仮面ライダーアギトのVTR1000Fファイアーストームにカッコよさの基準を作られたんスけど、あのー、ホンダさん、あの、あのー、ホンダドリーム1店舗あたりの配車台数は……

 

■読んだ

 労働が激しすぎてなんか読むってコンディションじゃねえ。会社で論文読まされた方が絶対に多い。いや、論文やら学会要旨集やらを読むこと自体は結構好きなのでいいんだけど、全部定時後なのでカス。

 死にそうになりながらもアグレッサーズ 戦闘妖精・雪風と裏世界ピクニック7巻は読んだ。深井零が何回「エンゲージ」って言うかを数えながら読んでいた。アンブロークン アローでは1回だったが今回は何回だったのか、キミの目で確かめろ。

 わかりやすくなったな、と思う。前回が2009年だかなので、読み手である自分がある程度知恵をつけて読めるようになったのか、時代が神林長平の想像力に追いつきつつあるのか、それとも神林長平も老いて優しくなったのか。原因がどこにあるのか、そもそも客観的なものなのか主観的なものなのかもよくわからない。〈改〉、グッドラック、アンブロークン アローとも実家に置き去りだし、実家にはなるべく立ち入りたくないし。

 あとはゴッサム・セントラルの2巻邦訳を読んだ。1巻から丸一年。ずいぶん待ったがそれで面白さが損なわれるわけでもない。このシリーズは原語で最後まで読んでおり、これを機にグレッグ・ルッカのStumptowmやQueen & Countryに手を出したりした。エドブルベイカーのScene of the Crimeを読もう読もうと思って読めていない。

 1巻に引き続き、バットマンではなくあえてゴッサム市警重大犯罪捜査班に所属する刑事たちを主人公に据えたことで、事件解決に伴うはずの爽快感が皆無なのがユニークかつ圧倒的な魅力である。常に己の無力を味わい、刑事とバットマンを比較し、彼を否定しながらも心の半分では認めて称賛する二律背反な態度が、刑事たち一人ひとりの個人的な問題や過去の経緯によって様々な傾きを見せる。群像劇であり、基本的に刑事たちの私生活に深く踏み込まない作風だが、決して人物が薄っぺらなわけではない。むしろフリークが跋扈しスーパーヒーローが夜を駆ける非現実的な街が、刑事たちの実在感によってリアルになっていく。バットマンの本流では決してないし、むしろガンダムでいったら∀ガンダムみたいな立ち位置(なんでもガンダムで喩えるのをやめろ)だけど、一番好きなバットマン作品を挙げろと言われたらこれを選ぶ人は一定数いるんじゃなかろうか。

 血界戦線B2Bを無料キャンペーンで一気に読んだりもした。スティーブン・A・スターフェイズの夢女になりそう。

 

■観た

 ブラックボックス 音声分析捜査、アネット、やがて海へと届く、モービウス、英雄の証明、カモン カモン。

 今月の残業時間が45時間に届くような過酷さでなければもうちょっと観たいのもあったんだが、そうもいかん。

 アネットは映画批評家(コラムニストではなく)が仕事をするためにあるような映画だった。過去作よりはわかりやすい物語の軸があったが、ぜんぜんわかんねえ。ひとつ気になるのは、ダークファンタジーという謳い文句である。生まれた子供が人形であることを指して言っているのだろうけど、カラックス本人が姿を見せ、ミュージカル映画という建てつけである以上、スクリーンの中にもう一層の虚構があると捉えるのが自然であり、すると人形が生まれるダークファンタジーではなく、子供役に人形という小道具を使っているだけなのではないか。自我を獲得する(物心がつく)前の子供を人形を用いて演出する悪意、親の犯罪を告発する時に人形から子役に置き換わる描写の意図が、ダークファンタジーと謳うと損なわれやしないだろうか。

 やがて海へと届くはホンマもんのカスである。悲劇の受容過程に傾聴的に寄り添う他者が必要なのはわかるが、それが女の話に共感せずに上から目線で解決策を提示して話している側が悪いかのような気分にさせる、いわゆる”アドバイス男”への反発とごちゃまぜにされており、これに観客が共感する時、震災という実在の悲劇の痛みは置き去りにされる。その上死んだ人間が海に溶け雨になり庭木を潤す……みたいな、喪失の虚無の重さを描くのにとても適切とは思えない描写が、わざわざ色鉛筆風アニメーションで成されている。実際の被災者らしい人まで出演させておいてそれか?それは誠実といえるのか?

 残された者の視点で進む物語がひと段落したところで、犠牲になった者のパートに切り替わって物語が語り直されるのも何一つ面白くない。わざわざパート切り替えるほどの謎や秘密があるわけじゃないし。あそこを全カットすれば喪失をテーマにしたGLものとして一応映画が成り立つと思うし、久しぶりに映画館で時計を見てしまった。

 それにしてもアドバイス男がいつも細身のスーツの堅い仕事をしていて正社員、傾聴してくれる男が非正規でヒゲでトレンドに合わせたオーバーサイズの服を着ているのがすごい。ポルノ的だ。

 英雄の証明が素晴らしかった。いわゆる嘘松認定によって実在していた善行が嘘ということにされて、周りの人の勧めでちょっとした脚色を加えながら善行をアピールした男が破滅してしまう現代の闇映画なんだけど、SNSで暴走する歪んだ正義感!!!みたいな話でありながらSNSの画面が1回もスクリーンに映らない。ネットに影響された現実の方だけを描いて画面に不在のものの大きさ・不気味さを描く手法は見事の一言に尽きる。

 

■書いた

 生産して遊ぶタイプのオタクの端くれなので、細々とやることはやっていたりする。で、古い友人がビビッときたらしく熱い全作レビューなどしてくれた。

 

下村智恵理を読んでくれ(それと僕のクソデカ感情) - 宇部詠一(ubea1)のブログ

 

 彼は過去に創元SF短編賞で審査員特別賞的なものまで獲得している実力者である。しかし、創作講座的なものに参加し、卒業制作的なもので派手に落選してから書く気を失ったらしく、悩みの多い日々を送っているらしい。的、の部分の具体名と、それに私がどちらかというと否定的で皮肉のスタンスを取るのは、Google検索して創業者の名前を見ればわかると思う。

 さておき、自作に関しては、自信を持っているところも瑕疵を見出しているところもある。なんにせよ、今後とも商業ラインとは異なるユニークさを追求していきたいと思っている。しかし、野菜を買うなら生産者の名前と写真がついてる不揃いなやつより普通のやつの方が色も形も味もいいわけだし、商業水準をもって面白さが保証されてるやつを読めばいい。それが普通の感覚だ。テキストを読むのは結構大きなコストを支払う行為だし、無理して最先端を追う義務はないし。つまり、『読んでくれた人はありがとう。読んでない人は無理して読まなくてもいいです。』そういうスタンスをあまり崩したくないなと思っている。読者目線が大事ってよく言うじゃん。

 その一方で、あまり自分が書いたものには関係ない話だが、生産者側の末端の感覚としては、とにかく創作活動に従事している者はその品質の如何を問わず頑張って続けてほしいなと思っている。励ましの声のなさに心折れたのか、人生の険しさに苦しくなったのか、きっとそれぞれの理由はあったのだろうけど、長く付き合いがあり、かつて精力的に活動していた人が次第次第にフェードアウトしていくのを見ると、我が事のような悔しさを感じるのだ。宇部に限った話ではなく、これまでの人間関係の中で、そういう事例はいくつも見てきた。仲間意識というか、似たことをしている人と人格の一部をシェアしているような感覚を持っていたからかもしれない。我々は長く生き過ぎたのだ。ずっと一緒に遊んでいたいよ……

 全然関係ないけど、二次創作ってのはどうなんだろう。迂闊なことは言えないのだが、一番苦しくて難しい人/キャラクターを生み出す作業を100%他人の創作物に寄りかかっている人々に対して、人格の一部をシェアしているかのような共感に至ることはあんまりない。というかスクールガールストライカーズでクソみたいなネタを吐き出している時に、そのあまりのイージーさに、これは全然違う遊びだなと実感した。何もしてないのに好みのキャラが既にあるなんて楽すぎるし、それで書けた気になるのはよくない。まったくよくない。甘えるな魂を削れ。

 

■観た②

 深夜アニメはまちカドまぞく2期にオールイン!な感じの春クールをやっているが、一方でBSで始まった深夜ドラマのシジュウカラと今夜はコの字でSeason2を大いに楽しんでいる。前者は40歳の主婦兼漫画家の主人公が18歳年下の美少年と不倫するもので、後者は冴えないサラリーマンの主人公が酒場マスターの美人の先輩に導かれて都内各地のコの字のカウンターがある酒場を巡る話。やはり深夜ドラマはセックス、バイオレンス、メシ、これだ。

 今夜は~の方は1期の放送後に、劇中に登場した秋葉原の赤津加に実際に行ってみたりもした。すごくいい店だったし、機会があれば再訪したいところ。そうもいかない時世になってしまったが。2期も毎週楽しみにしている。

 後はAmzonプライムビデオの配信終了に滑り込んでMIU404を全話観た。オタクなので現代を正しく反映した悪役が大好き。

 

■コラム・特撮と私

 突然だが昔話をしたい。

 遡ること2億年ほど前、小学校4年生の頃、給食の時間に、何を思ったのか担任の先生に「うるせえよこのできそこないがよォ」と言い放って思い切りはっ倒されたことがある。もちろんそんなことを言う方が悪いし、正しい教育的指導だったと思っているし、その先生のことは今日に至るまで深く尊敬している。しかしずっと疑問だったのが、刺激的なフィクションから慎重に遠ざけられるクソみたいな子供時代を過ごした(お陰様で今はエロ漫画や深夜アニメが大好きです)にもかかわらず、10歳の子供が、どこで「できそこない」などという語彙を仕入れたのかである。なんてったってキャプテン翼ドラゴンボールスラムダンクも、ポケモンですらも、あの頃子供たちを夢中にさせたアニメを尽く観たことがないのだ。

 最近Youtubeで配信が始まった恐竜戦隊ジュウレンジャーを観ていて、その積年の疑問が氷解した。第5話と第6話に登場するドーラスフィンクスこそが、その語彙の元だったのである。

 ドーラスフィンクスは、そのへんの公園にいる子供になぞなぞを出し、答えられないと木に変えてしまう。怖すぎる。そして、子供がなぞなぞに誤答したとき、「このできそこないが~!」と言うのである。

 世代だったこともあり、というか特撮はセーフ扱いだったこともあり(たぶん父がウルトラセブン世代だったため)、ジュウレンジャーは熱心に観ており、大獣神が登場する5話6話も印象に残っている。木にされる恐怖と、「このできそこないが~!」という台詞とともに。人生に大事なことは全部特撮が教えてくれたのだ。

 

■コラム・千羽鶴と私

 いい思い出の話をしたので苦い思い出の話もしていきたい。

 千羽鶴、定期的に話題になるじゃないですか。古くは東日本大震災。最近ではロシアによるウクライナ侵攻。インターネットの人たち、苦難の只中にある人に千羽鶴を贈ろうとする人をどこからともなく見つけてきて、迷惑だ無駄だやめろって騒ぐじゃないですか。いいや贈るべきだ!!!!!とか折る人の気持ちまで否定するのか!!!とか騒ぐつもりは毛頭なく、むしろスタンスとしてはインターネットの人たちと同じく、そんなもんやめちまえという意見である。そして千羽鶴の話を見かけると、私には必ず思い出してしまう出来事がある。

 遡ること1億年ほど前、小学校5年生の頃のことだ。卒業する6年生のために、千羽鶴を贈るという企画が立ち上がった。今も続いているのかわからないが毎年の恒例行事らしく、その折り鶴の中には自分の名前と卒業生へのメッセージを入れ、全員が5羽だか10羽だか50羽だか折ることになっていた。しかし、6年生など顔も名前も一切知らない。どうでもいい人に祝意を贈る意味がわからないし、どうせ千羽鶴なんて貰っても捨てるだけなのに、そのためになぜ骨を折らねばならないのか、どうしても納得がいかなかった。

 で、教室の端に箱が用意され、折った人はそこに入れるルールになっていた。そんなん、ボイコットするに決まっている。当然、1羽も折らずに知らん顔をしていた。だが、提出期限を過ぎたある時、何かのきっかけで、学級会が催された。

『折り鶴が足りない!誰かが折っていない!』

 で、定番である。顔を伏せ、折ってない人は正直に手を上げなさいとなる。上げるわけがない。なぜなら折らない方が正しいと私は確信していたからである。

 で、犯人探しが開始される。担任の先生がひとりひとりの席を巡り、「折りましたか?」と訊く。私は当然「折りました」と答える。誰一人、折ってませんとは言わない。そこで、丁寧に折られた鶴を先生が1羽1羽確認し、名簿と突き合わせて、ついに折っていない児童が特定された。私と、クラス内での暴力行為でしばしば保護者が呼び出されていたシングルマザーの家庭の公営住宅の子と、何かにつけて不器用で要領が悪い子の3人だった。

 私は抗弁する。「6年生なんて顔も名前も知らない。そんな相手にどうしておめでとうございますなんて思えるのか。嘘の気持ちを平気で書ける方が間違っている」「千羽鶴なんてゴミになるだけだ」「無意味なことをなぜするのか、理屈が通らない」「ありもしない気持ちを書かせることは、正しくないことだ」先生は怒る。「ならあなたは、あなたが卒業する時、千羽鶴を貰えなくてもいいのですか?」私は大声で応じる。「要らない!絶対に要らない!来年、俺だけ千羽鶴なしでもいい!なら折らなくてもいいってことですか!?」そこから先は覚えていない。覚えているのは、「嘘つき」と言われたことだ。確かに私は、折っていないのに折ったと嘘をついた。それは動かしようのない事実だった。同じく折っていなかった2人に賛同も求めたが、彼らは私のような確信犯ではなかった。公営住宅の子は不満げに黙って足をぶらぶらさせるだけだったし、要領の悪い子はおろおろするだけだった。

 体制と戦うならば、集団の力が必要である。理不尽なルールを変更したいなら、まず賛同者を集めるべきである。そして私には理論があったが、カリスマがなかった。さながらエンゲルスを得られなかったマルクスのように。

 私は敗北し、絶対に正しいはずの私の思想が受け入れられず、理不尽な体制によって圧搾される屈辱に塗れながら鶴を折り、心にもないメッセージと名前を書き入れた。ご卒業おめでとうございます。途中でご卒業と画数の多い文字を書くのが面倒になり、おめでとうございますとだけ書いた。

 しかし、なぜバレたのか。鶴の数なんて山になっていればバレやしないだろうと高をくくっていた覚えがある。だが……思い返すと、私は折りに触れ「は~~???あんなん折らね~~~!!」と吹聴していた覚えがある。まさに身から出た錆。

 革命は、その決行の時まで秘するべし。体制に与し人の自由を奪う秘密警察や、自由を進んで差し出す体制の飼い犬たちがどこに潜んでいるかわからないのだから。

 余談だが、社会における必要性は理解しているが、自分では就きたくない職業が3つある。ひとつは医者、ひとつは葬儀屋、ひとつは教師。前2つは他人の不幸が飯の種だからであり、最後の1つは、自分のようなクソガキを教えると思うと気が狂いそうになるからである。

 

■シン・ウルトラマン

 楽しみだね。

 最新予告編の山本耕史演じるメフィラスにゾッとしたりしている。というのも、山本耕史は不気味な圧のある人間を演じさせたら当代一の俳優である。直近で一番のハマり役は、きのう何食べた?の小日向さんだと思っている。顔のいい怠け者で自分勝手なゲイをジルベールと呼んで扶養(養育?保護?)する、不気味な圧のあるゲイの男である。これが怖い。

 センシティブな話題だが、つまるところ我々シスジェンダーヘテロセクシャル、普通の日本人、まあ何でもいいが、多数派の側の人間は、少数派の人間の持つ雰囲気を、違和感として、敏感に感じ取る。インターネットによってそういった違和感は次々と可読化されており、"チー牛"もまたそのひとつだ。まあチー牛はマイノリティと言うには多すぎるのであれだし、私だって多分にそちら側である。

 ともかく、山本耕史の圧が、人間でない存在を演じるにあたって”ハマる”ことが、恐ろしいのである。理性によって克服できない根源的な差別感情が可視化され、人と人は結局分かり合うことはできず、生理的な嫌悪を克服する唯一の方法は距離を取ることなのだと突きつけられているかのようだ。いや、実際そうだし、異星人(外星人)の表現としてベストなんだけど、距離を取るしかないという考え方は一歩間違うと相模原障害者施設殺傷事件の植松聖の肯定に繋がりかねないし、精神科病棟を社会から切り離したことをも肯定するし、つまり差別を区別と積極的に混同して分断を煽る考え方であり……こういうことへの態度は一生考え続けるか一切考えないかの二択であり、前者のほうがマッチベターなのは言うまでもない。

 

■部屋の掃除

 終わる気がしない。早く椅子に座りたい。