82 - 赤線遺構、玉ノ井を歩く

 玉ノ井といえば永井荷風の濹東綺譚である。年末の帰省(帰省とは名ばかりで、都内某所の実家には決して足を踏み入れずそのへんのビジネスホテルに泊まる)の宿が諸般の事情で隅田川の東側のエリアになり、いい機会なので玉ノ井を歩いてみることにした。

 

 最寄りは東武スカイツリーライン(なんだよこの路線名)の東向島駅である。きちんと旧 玉ノ井とつけているのが偉い。駅の隣には東武鉄道が運営する博物館があり、玉ノ井駅時代の模型が置いてあったりとかつての地名へのリスペクトが感じられた。

 

 せっかくなので岩波文庫で濹東綺譚を買い、移動の時間潰しも兼ねて久方ぶりに再読した。それによると、玉ノ井の私娼街は大正通りの南北にのべつまくなしに広がっているようなことが書かれている。だが、これらは空襲で壊滅的な被害を受け、戦後もう少し北側のエリアに移動している。戦後に作られたものなので、銘酒屋(飲食店という体でアレする場所)というよりカフェー(飲食店という体でアレする場所)の体裁を取っていたようで、今回歩いたのはこのエリアである。建物はさすがに年月を経てほとんど残っていないが、空襲で焼け残ったためか迷宮(ラビラント)と荷風が評した入り組んだ路地は健在である。戦争はないに越したことはない。

 東向島の駅から線路沿いに北上すると、濹東綺譚の挿絵にある手描き地図の中にも書き込まれている「大正通り」と交差する。現在は「いろは通り」と呼ばれているようだ。線路沿いの商店街と比べると少し落ち着いた雰囲気の住宅街である。ちなみにこの道を直進するとエリアの区切りである鐘ヶ淵通りと交差し、その先に東武スカイツリーライン(本当になんなんだよこの路線名は)の鐘ヶ淵駅がある。時代劇が好きな人には、秋山小兵衛の隠宅の所在地として知られた地名だろう。

 

 大正通り。濹東綺譚の描写を読むに、荷風の時代には猥雑で生命が延びる気がする繁華街だったそうだ。この左(北)側が今回の目的地である。

 進むと………

 

 目抜き通りの右手と比べ、左の見通しの悪いこと。これが迷宮の入口である。

 

 一歩踏み込むと複雑に入り組んだ路地。ツーリングマップルスマートフォンもなかった時代にはさぞ難儀したことだろう。歩く間に、「こっちでいいんだっけー?」「うんそっちー!」「えー?」などと言い交わすママチャリ主婦3人組の会話が聞こえた。地元住民たちにもこの迷宮は悩みの種であるようだ。

 では、目についた趣ある建物の写真をいくつか。当然ながら、現在は趣があるだけであり、単に築年数の深い建物も含まれると思われ、これらの当時の用途については問わないものとする。

 

 改装されている建物がある一方、現在進行形で取り壊され更地になっている場所も多い。

 

 ここはいかにも往事を偲ばせる外観だった銭湯「墨田湯」の現在の様子。Googleストリートビューでかつての姿を確認できる。

 だが、玉ノ井については、建物が消えても路地が残る。

 

 見事なS字。吉原の大門跡のあたりを思い出すこんな景色がエリア全体を占めているのだ。やはり公認されて周囲から区切られた歴史のある土地と私娼窟では異なるのだろうか。どんなに建物が消えてもこの路地が残るとあれば、我々のような好事家には喜ばしいことであるし、きっとこれからも多くの人を惹きつけることだろう。

 直前にスカイツリーに登りソラマチ周辺の華やかなエリアを散策したこともあり、迷宮の印象が鮮烈だった。玉ノ井は有名な赤線遺構エリアであり、永井荷風の力もあってかネット上に多数の散策録が残されている。しかし、こういった土地は日々建物が消失し、かつての雰囲気が失われていくのが常である。ある時、誰かが歩き、その時点の記録を残し公開することで、集団による定点観測を行うことには大きな意義があると考えるものである。