86 - シン・仮面ライダー 感想

 長々と感想文をしたためるたび、夏休みの読書感想文がマジで苦手な子供だったことを思い出している。

 

■シン・仮面ライダー あらすじ

 出る!倒す!葛藤があるらしい!早口で設定を解説する!出る!倒す!早口で設定を解説する!葛藤があるらしい!出る!倒す!なんかエモいらしい!出る!倒す!早口で設定を解説する!出る!逃げる!早口で設定を解説する!葛藤があるらしい!出る!倒す!なんかエモいらしい!早口で設定を解説する!葛藤があるらしい!出る!倒せない!出る!倒せない!早口で設定を解説する!葛藤があるらしい!出る!倒す!なんかエモいらしい!出る!倒す!葛藤があるらしい!倒した!終わった!

 何????????

 

■シン・仮面ライダー 感想

 自分としては、面白くないし、いいところ探しをするべきではないとすら思う。TVシリーズが前提にある以上、ある程度、駆け足であらすじをなぞる総集編感が生じるのは致し方ないことだと思う。それにしても、ひどすぎる。観客の感情移入を拒否するかのようなシチュエーションと設定の羅列にすぎず、破綻しているのである。何として破綻しているのか? 別に、”何として”にどんな切り口を代入してもいい。”映画として”、”物語として”、”エンターテイメントとして”、”特撮として”、なんでもいい。どの視点から見ても破綻しているからだ。

 最大の課題は、主人公・本郷猛のキャラクター描写が破綻していることではないか。明確に描写される彼のバックグラウンドは、幼少期に警官である父親が暴漢に殺害されたことだけである。以降の人生は、ルリ子から早口で一瞬、語られるだけにすぎない。緑川博士と顔見知りのような描写だから、大学か大学院に通っていたのだろうし、趣味がバイクツーリングであることもわかる。だがその大半が、文字で書かれたものを読み上げた設定にしかなっていない。観客は、一体どうやって彼に感情移入するのだろうか? 父親の死を受けて、どのような葛藤を抱えて彼が生きてきたのか、観客にはまるで伝わらない。伝えるつもりのある映像ではない。だから心が動かない。

 第一幕から第二幕では、仮面ライダーとなった彼の、暴力を行使することへの葛藤とその克服が描かれている……らしい。というのも、本郷の優しさは「優しすぎる」というルリ子のセリフでしか伝えられないし、暴力を行使することへの葛藤も、忙しないPOVや絵面しか考えていないようなロングショット、目を疲労させる手持ちカメラ映像でしか描写されない。優しすぎる本郷に説得力を持たせる映像が存在しないのだ。

 親切で、慎重で、作り手の意図を頑張って読み取ろうとする鑑賞者であれば、感じ入ることもあるのかもしれない。だが映像は、不親切で、大胆で、作り手の意図を伝える努力に乏しい。だから、戦闘員とクモオーグとの戦いに巻き込まれた状態から一拍置いた本郷が、なぜ暴力を行使することを決意したのかが、わからないのだ。だが、勇ましいBGMと共にサイクロン号は疾走する。観客は置き去りだ。そんな状態で決めセリフを吐かれたりド派手なアクションをされても面白く感じられないし、むしろCGのCGらしさやキャラクターの嘘くささに注目してしまう。感情移入なしに、嘘を本物にする物語の魔法はかからない。

 バイクツーリングを趣味にしているらしい本郷だが、サイクロン号への関心が描かれることも皆無である。自動運転でついてきても無関心。ちなみに、本田技研工業が2017年に発表したHonda Riding Assistでは、「手を触れた人の後ろをついていく」ことを実現している。残念なことに、マシンと人の愛着関係の描写?については、現実の方がフィクションを上回ってしまっている。

Honda Riding Assist | CES 2017 | Honda

 

 第三幕は本作最悪のパートだと思う。何せ、オーグ2人を丸ごとカットしても何ら問題ない。まるでコンセプトアートのスライドショーを見ているかのような唐突な場面転換の連続で二幕から切り替わった第三幕は、サソリオーグによる虐殺とそのサソリオーグを集団の力で撃破する警官隊から始まるのだが、血が流れることが明白でも本郷はその状況に特に介入せず、他者に任せきりである。暴力に敏感な心優しい男ではなかったのだろうか? 観客は本郷のことがどんどんわからなくなる。

 そしてハチオーグとルリ子の友人関係でようやく感情移入できるサブプロットが現れる……と、思ったらルリ子の目が光って常人ではないことが明かされてしまう。せっかく食事をするのに栄養補給と言い切って掻き込むだけだし、そもそも何を食べているのか映らない。こうして本郷だけでなく、ルリ子の物語まで観客にとって自分事ではなくなるのである。

 そしてハチオーグにプラーナを吸われて死ぬ人に心優しい男であるはずの本郷はなぜか大きな関心を示さず、なぜか急に「覚悟!」などとカッコいいことを言いながら、しかしなぜかトドメを刺さない。前段でルリ子の物語が観客目線から浮遊しているため、ルリ子が泣いても特に心動かされることはない。すべてがちぐはぐで意味不明である。辻褄が合う解釈も不可能ではないが、頑張って解釈しなければならないのは映像の不行き届きである。三幕の中にはルリ子が子供じみた甘えを見せるシーンもあるが、急に別人格が乗り移ったかのような違和感しかない。ルリ子が影響を受けているらしい本郷・心優しい男・猛の方の描写が支離滅裂であることがその原因のひとつだろう。

 真社会性昆虫であるハチの生態を人間に適用したコミュニティというアイデアは魅力的だし、きっと多くのアイデアが背景にあることだろう。だが出てくる絵面は西野七瀬による洗脳ハーレムである。アルファ個体のメスが子を産み、奉仕するワーカーの中に生殖をしない階層が存在するのが真社会性昆虫であり、これは見方によっては現代の少子化問題の解釈になりえるが、掘り下げはない。作品の社会派エンタテイメント化を必死に拒絶しているかのようだ。

 三幕にも縦糸の話はあるが、サソリオーグとハチオーグとはあまり関係がない。本郷とルリ子の信頼関係が醸成される過程になっていればよかったのだけど、なってないどころか支離滅裂さが深まるので、丸ごとない方がマシである。

 

 第四幕では、主だった登場人物への感情移入が困難な本作における唯一の清涼剤・一文字隼人が登場する。しかし、洗脳に抗い自分の筋を通しているというルリ子の説明セリフは描写のどこを反映しているのだろう。オーグたちはショッカーの理想を忘れエゴに邁進している、だから倒せと緑川博士は語っていたし、クモ、コウモリ、サソリ、ハチはみなその通りである。つまり、全員が自分のエゴ=筋を通しているように見える。洗脳状態の第2バッタオーグと何が違うのだろう。仮面ライダーへの舐めプのことを言っているのだろうか? ハチも刀を渡していたのに?

 早口で説明されても無理がある第2バッタオーグの仮面ライダー第2号への開花を無理矢理にまとめるのは、原典パロディ要素である。1号の負傷要素、漫画の元ショッカーライダー要素、マフラーの視覚要素、涙ラインの解釈要素……すべて、人の感情ではない。だから観客は受け入れることが難しい。洗脳解除時に一文字の泣き顔が映されるけど、いきなり出てきた一文字の過去を高速ダイジェストされて感情移入しろってのは無理がある。

 一応ルリ子は死んでるけど、どこにも心揺さぶるものがない。どうやら目的のために作られたモノ存在が本郷の優しさに触れて人間になって死ぬ感動的なものらしいのだが、そもそも本郷の優しさが意味不明なので、意味不明である。第一、ここまでの本郷はルリ子にとって原則思うがままに動いているのである。人間が他者の存在を実感し影響を受けるのは、その他者がコントロールできないからではないだろうか? 本郷への不適切な描写がルリ子の描写を壊し、ついには一文字の開花からも説得力を奪っているとも考えられる。全編通じて、強固なプロットに服従するキャラクターの弱さが印象的な作品である。逆でなければならない。

 しかし、登場が意味不明だった一文字隼人には、浅間山のシーンで血が通うのだ。写真を撮る。孤独を好きになる、とバイクを語る。親指を立てる。軽口を叩く。世の悪を暴きたいという理想に燃えていたらしき過去と、飄々とした一匹狼のパーソナリティ、そして葛藤に折り合いをつけた証と取れる決めセリフが描かれることで、観客は彼に感情移入することが可能になる。他のキャラクターはどんな人間なのかがまったくわからないので一文字だけが異質、というか、キャラクターとしての最低限の魅力が描かれている。一文字が素晴らしいのではなく、一文字が最低限で他が全部最悪なのだ。

 このように一文字以外への感情移入が困難なまま突入したクライマックスが盛り上がるはずがない。まずしょっぱいCGでギャグのような動きをするショッカーライダー(イナゴなら機械的に動くのはおかしいと思うし群体シミュレーションでもない、何より黄色のアイコンがないのが不満)で出鼻を挫かれる。仮面ライダー第0号!でこれがライダー春映画だったことを思い出し、これまで真面目に首を捻っていたことの馬鹿らしさを思い知る。蝶設定とコンテンポラリー・ダンスシナジーで不気味な悪役を見事に演じた森山未來もこれでは浮かばれない。

 サイクロン号の自爆でごめんねガンバスターする本郷も意味不明である。彼は後ろから自動運転でついてくるサイクロン号になんの感情も示さなかった人間であり、アンチショッカー同盟?がサイクロン号を整備している時も特に口を出すことはなかった。にもかかわらず、自爆させる時にはサイクロン号に語りかける。支離滅裂であり、本郷への感情移入の不可能さがここで極まってしまった。

 加えて、三幕から少しずつ明かされるSHOCKERの最終目的とそれに関する泥仕合中の会話も監督の過去作の焼き直し感が否めないため、いわゆるオタク層の観客の熱量も冷めてしまったのではないだろうか。

 とにもかくにも登場人物、特に主人公・本郷猛への感情移入が蔑ろにされており、面白いと感じることが困難な作品である。陰キャの社会復帰モノとして見ようにもコミットする社会の描写が見当たらない。

 

 実は鑑賞前には、庵野秀明のネームバリューを借りて、仮面ライダーというIPが再び一般層へ広まる契機となるのではないかと期待していた。だが実際の作品は、観客目線の欠如したただの映像の羅列である。出る!倒す!早口で設定を解説する!葛藤があるらしい!の連続を、観客はどうやって自分事として感じればいいのだろうか。

 ジャリ番ならジャリ番の楽しみがあるが、本作はPG12である。一定以上の年齢層が対象とされており、彼らの多くは、仮面ライダーがジャンプしていればそれでいいわけではない。おそらく、話題が行き渡った2週目以降の興行収入はガタ落ちするだろう。広く受け入れられるはずだった仮面ライダーは、これまでと同じく子供たちと特撮マニアのものであり続けるだろう。成功を受けて次回企画の予算規模が大きくなることも、予算規模によって作品の品質が上がることも、上がったことで更に成功し、さらに面白い作品が生まれるという好循環に繋がることもないだろう。

 だからつまらないと言うし、変に制作陣に共感して枝葉を持ち上げるよりも、つまらないと騒いだ方が、長期的には好ましいのではないかとさえ思う。つまんないものにつまんないと言うことを規制されるべきではないし、いいところ探しをすることが正しい態度なのだという考え方に私は賛同しない。駄作を肥え太らせても何もいいことがない。一般人置き去りだけどw加減しろ!w笑 じゃあねーんだよ。マジで。歪さを褒めそやすかのような受け止め方はやめよう。

 とても観客を見ているとは思えない歪な仮面ライダーが二度と生まれないことを、切に願う。

 

■その他、推測が含まれることと、ちょっとした所感

・背景がないとはヒーローの類型でもある。ヒーローには申し訳程度の設定だけがあって、テレビでは大活躍だけが描かれることはままある。ウルトラマンだって事故前のハヤタ隊員のことはよくわからないし、セブンがモロボシ・ダンを名乗る理由を描くエピソードは第1話ではない。ヒーローの背景はしばしばカードのフレーバーテキストや児童書の中にしかなく、本編からは欠落しがちなものだ。本郷猛や一文字隼人も、改造される前の日常がしっかり描かれていたわけではない。

・一方で、歴史を経て仮面ライダーは批評や考察をされ続けてきた。正義のために暴力を振るうことは正しいのか。力を持つ者の責任や悲哀。悪の秘密結社の主張にも時には一理あるのではないか。

・シン・仮面ライダーは、批評や考察の内容、あるいは作り手が仮面ライダーから受け取って咀嚼したものを、背景が欠落した昔気質のヒーロー番組の中に詰め込んだ作品のように見える。

・それは観客目線の欠如である。感情移入を考えないただの羅列に共感し、面白いと思う観客はいない。唯一の例外は、登場人物ではなく監督に共感する人々である。

・同じ俳優の起用は観客目線ではない。

・特徴的なセリフを繰り返すキャラ(メフィラス)がウケたからといって同じことを複数のキャラでやるのは観客目線ではない。

・先走って主役の足を引っ張らないヒロイン像は、観客目線ではなく、SNSノイジーマイノリティ目線である。

・弱くてすぐ窮地に陥るわけではないヒロイン像は、観客目線ではなく、SNSノイジーマイノリティ目線である。

・男女が寝ないしキスしないのは、観客目線ではなく、SNSノイジーマイノリティ目線である。

・「ルリルリ♡」のような百合っぽい関係性の導入は、観客目線ではなく、SNSノイジーマイノリティ目線である。

・こんなにつまらないなら露骨に猫を助けるとか、キスシーンとか、家族愛とかの要素で一本筋を通した方が幾分マシである。

・本郷猛役の池松壮亮は大いに苦労したのではないかと想像する。起点となるトラウマはともかく、改造人間になるまでの人生がまったく台本にないにも関わらず、朴訥・寡黙な中から人間性をにじみ出すような演技をしているのだから。表情で演技させてもらえずPOVやロングショットが使われているし、しかも制作陣は演技にあまり口を出さずにスーツを着たらマフラーの角度を執拗に直すのだという。無理があると思う。

・マフラーの角度より気にすることがあるだろ。

・文芸設定的な部分は面白かった。最大多数の最大幸福ではなく個人の深い絶望を救済するSHOCKER、洗脳解除すると忘れていた絶望が押し寄せて泣く、だからライダーの仮面に涙ラインが描かれている、とか。仮面とコンバーターラングとベルトそれぞれに機能を割り振っているところとか。幸せと辛さの線一本の違いがオーグとライダーの差であるとか。つまんなすぎて観るのが辛・仮面ライダーだけど。

・その他いいところはたくさんあるけど、つまんなすぎて辛・仮面ライダーなのでいいところ探しもしたくない。

・SHOCKER側とライダー側の思想的対立がほぼなかったのが大きな不満である。オーグたちによるエゴでしかない偽りのサスティナブル・ハッピネスを頭脳明晰な本郷が否定したのはコウモリオーグ戦だけだった。人類の数を減らしてやる~~ゲハハハ~~~だったけど。でもここは高齢者が減ることが社会の持続可能性に利するのではないかという議論が実際にあった。ここだけサルでもわかる社会派エンタテインメントになっているというか、程度の低い邦画にありがちな安っぽい社会派要素というか……

・本郷の人物像がよくわからないので人類補完計画への本郷の感想もよくわからない。そもそも仮面越しで何言ってるのかわからない。

・仮面、と意識して表記しているが、マスクではなく仮面と呼んでほしかった。仮面ライダーだし。

・オールドタイプな劇伴の差し込み方が雰囲気をぶち壊しにしていることも指摘しておきたい。これはシン・ウルトラマンにも共通する問題だと感じている。シン・ゴジラの時はジャリ番の美点だけを取り込み無茶な展開に魔法をかけて説得力を持たせる効果を発揮していたが、シン・ウルトラマンと本作ではジャリ番の欠点をも取り込んでしまい、そこにCGにしか見えないアクションが重なることで嘘くささが加速し、映像の価値を毀損している。オールドタイプな劇伴が流れるたびに逆に盛り下がっていると思う。

・信仰上の理由(生命は尊い)で本郷猛と名の付いた男の死は受け入れがたい。たとえ原典パロ要素が盛り込まれていたとしても受け入れがたい。というか本郷猛の死と「ああ、一文字!」bot化が賛否両論の的になるくらい面白い映画ならよかった。生きて、生きて、生き抜け。

・流血と暴力で容赦のない死が描かれているのに、プラーナなんやかんやで主役はそれを回避しているのも変だ。人格を保存することができるならなぜオーグたちを保存せず殺したのだろう。暴力への葛藤とはなんだったのか?それとも再生怪人フラグ?

・最後のシン・サイクロン号のベース車両はCBR650Rだと思う。ヘッドライトの形がそっくり。