50 - ドキュメント不妊治療 リョウコさん(36・仮名)の場合 [後編] 私の『普通』が壊れた日

『ドキュメント不妊治療 リョウコさん(36・仮名)の場合 [後編] 『普通』の仮面が壊れた日』
週刊月宿女性フィフス2019年12月第4週号

 前号と今号の特集は『不妊治療』。実に6組に1組のカップルが不妊に悩んでいるという、まさに不妊大国ニッポン。先日は、1年あたりの出生数が90万を割ったという衝撃的なニュースが列島を駆け巡った。では、子供が欲しいのに授からない多くのカップルの希望である『不妊治療』の実態はどうか。本記事では、前号に引き続きリョウコさん(36・仮名)の体験談をお伝えする。夫の男性不妊が発覚。憧れていた『普通』が遠ざかったとき、彼女はどんな決断をするのか。なお、本文中の記述には細心の注意を払っているが正確ではない可能性があり、不妊治療を検討されている方は、必ずお近くの病院・クリニックを受診し、正確な情報を収集して欲しい。

前編はこちら
49 - ドキュメント不妊治療 リョウコさん(36・仮名)の場合 [前編] 普通だった私の…… - baby portable log



消極的な夫、無理解な義母……
 それから毎晩のように夫婦の話し合いが続いたというリョウコさん。不妊治療には当然ながらお金がかかり、身体的には女性側の負担が大きい。そして子供を持つという人生の大きな選択についても、夫婦で向き合わざるを得なくなった。

「君が欲しいならいいよ、と夫は言うんです。私は、夫にも賛成してもらって、子供が欲しいと思ってもらって治療に進みたかったのに。同じ気持ちじゃないのに子供を作って、それで幸せになれるんでしょうか。結局、どんなに話し合っても、夫の態度ははっきりしませんでした。はっきりして、と詰め寄ると、『一番苦しいのはリョウコだから』と私のせいにするんです。こんなにも選択から逃げる人だとは思わず、私は夫に失望しました。もしかしたら別の人生があったのかも、とさえ思っちゃいました」(リョウコさん)
「私どもはあくまで治療をおすすめすることしかできません。治療法も、そもそも治療を行うのかも、選択されるのはご夫婦の意志です」(李野田医師)

 結論は出ず、リョウコさんの身内の不幸などもあり、結局は一番身体的・金銭的負荷の小さいタイミング法を継続することになった。だが、夫の態度が徐々に変わってきたのだという。

「週末の仲良しの頻度が減りました。毎週だったものが2週間に1度になり、月に1度になり……。ちょうど夫の仕事も多忙になり、帰宅が遅くなることが続いていました。月に1度が私の排卵日に重ならないことも増え、タイミング法も曖昧になっていきました。私たち、妊活してるんだよね、と何度も何度も訊こうとしましたが、訊けませんでした。私のわがままに夫は付き合ってくれている、だから彼に負担をかけてはいけない、という意識が、私の中にあったんだと思います」(リョウコさん)

 そうして成果の上がらないまま1年、2年と時間が流れてしまう。治療開始時には29歳だったリョウコさんは、32歳になっていた。
 一般に、35歳を過ぎると卵子の劣化により自然妊娠の確率は急激に低下し、流産率も増加すると言われている。リョウコさんのタイムリミットが迫っていた。
 毎週日曜日の義母の訪問も続いていた。週に一度、子供はまだなのかとプレッシャーをかけられるリョウコさん。次第に心身ともに限界に近づいていた。
 そんなある日、リョウコさんは義母に声を荒げてしまう。

「ちょうどある芸能人の結婚・妊娠の発表がニュースを賑わせていた頃でした。彼女、Aちゃんは学生時代、私と課外活動を通じて非常に親しくしてくれていました。私のふたつ年下のコです。義母もそれを知っていて、私に『あなたはまだなの?』と言うんです。それで、張り詰めていたものが切れました。義母に、彼のせいなのに、と叫んでしまったんです。でも義母は信じてくれませんでした。それどころか、私が治療開始の時に夫に黙っていたことを責め、Aちゃんのようなコならともかく、私みたいな普通の女には妊娠するしか能がないのに、それすらできないのか、ということまで言いました」(リョウコさん)

 不在だった夫が帰宅後、義母との一件を相談したリョウコさん。だが、当初こそ憤った夫だったが、義母にいいように丸め込まれてしまったのだという。
 夫が味方になってくれなかったことにショックを受けたリョウコさん。さらに追い打ちをかけるようなことが、その翌週に起こった。



僕に笑わない君を
「週末の仲良しと、私の排卵日が重なったんです。今度こそ、という思いで、私は夫をベッドに誘いました。夫もその日は珍しく積極的でした。ですが、いざ仲良ししようという時でした。『できない』と夫が言いました。『僕に笑ってくれない人を、どんな顔で抱けばいいのかわからない』と夫は言いました」(リョウコさん)
「意味がわかりませんでした。苦労して苦労して、病院に通って、義母と衝突までして、それでも子供が欲しくて頑張っている私の気持ちなんか、夫はどうでもよかったんです。なぜ私だけが頑張って、その上笑顔で抱かれなければならないんですか。不妊治療は夫婦でするものなのに、どうして彼を100%心地よくするために私だけが一方的に頑張らないといけないんですか」(リョウコさん)

 だが、翌朝に鏡を見たリョウコさんは愕然とした。

「能面のような顔をした女がいました。私じゃないみたいでした。それでやっと、自分が追い詰められていたことがわかりました。笑っていない、という夫の言葉は本当だったんです」(リョウコさん)

 一連のトラブルは、義母だけでなく義父や、リョウコさんの父親まで巻き込んだ話し合いで一応の解決を見た。しかし夫婦の間には修復できない傷が入ってしまった、とリョウコさんは言う。そして話し合いの中、クリニックが提案した方法のうち、顕微授精を試すことが決まった。決め手になったのは、リョウコさんの父親の言葉だったのだという。

「お前たちは娘を泣かせた。金は私が負担する、と父は言いました。特に金銭的に困っていることはありませんでしたが、それで皆が納得しました。私が悪いのだから、私の側で金額を負担することで、落とし前をつける、というニュアンスがあったのだと思います。それと、私の父は元警察官で、貫禄のある人だったことが、効いたのかもしれません。それから何日かは久しぶりに実家に帰ってゆっくりしました。独身の幼なじみに久しぶりに会って、彼女相手に目一杯愚痴ってしまったり……。父と、彼女には頭が上がりません」(リョウコさん)
「ICSIで子供を授かる確率は、全年齢で12%ほどです。これももちろん、年齢によって変わってきます。32歳頃までは20%程度のところ、以降は急速に下落し、40歳では7~8%程度になります。1回あたり30~60万円程度の費用もかかります」(李野田医師)
「5人にひとりは成功する、と聞かされてからは、祈るような気持ちでした。自分が5人のうちのひとりであることを祈りました」(リョウコさん)

 顕微授精は、精子の中から運動性に優れて形が正常な精子をひとつ人為的に選び、卵子に注入することで行われる。しかし、精子が自然妊娠で淘汰されずに卵子に到達する1個と同一である保証はない。遺伝子疾患等が増加するという有意なデータはないが、未知のリスクを孕んでいる可能性はある。また、32歳時点での成功率が20%ということは、裏を返せば、失敗率が80%ということでもある。



失敗、失敗、そして喜びの矢先……
 受精卵を体外で作り、胎内に移植すること3回。妊娠は確認できなかった。だがついに4度目で、妊娠が確定した。この時は、移植前にリョウコさんはホルモンバランスを整える薬を服用した状態だった。そしてリョウコさんは33歳になっていた。

「天にも昇る気持ちでした。ぎりぎりのところで滑り込めた、という安堵の気持ちもありました。でも……」(リョウコさん)

 妊娠検査薬で妊娠が示唆され、クリニックを受診し妊娠4週との診断を受けたリョウコさん。報告のため、夫の職場へと向かった。電話やLINEではなく、自分の口で、しかし一刻も早く伝えたい、という思いからだった。だが。

「同僚の方から、夫は外回りで不在、と言われました。そしてその同僚の方が、『こんな奥さんがいるのになあ』と口にしたんです。直後に、ばつが悪そうに取り繕っていました。私はその人を問い詰めました。そして思いもよらないことを聞かされたんです」(リョウコさん)
「その日、酔って帰宅した夫がお風呂に入っている間に、私は夫の財布を持ち出して調べました。同僚の人が言った通りでした。中に風俗店の名刺が入っていたんです。ポイントカードみたいなのも。今でも忘れられません。名刺には『こはる♡』と書かれていました。いつもありがとう♡、とも。何度も通っていたんです。私が妊娠できなくて苦しんでいる時も、義母と衝突している時も、父がお金を出してくれると言った時も、ずっと夫は、その『こはる♡』って女のところに通ってたんです。顕微授精のお金は出さないのに、風俗にお金は出せるんです。信じられませんでした。それから、夫に渡したお金と、飲み会やお昼の代金と、その風俗店の料金を調べました。ちょうど、私のことを抱けないと言った頃から、使い途のわからないお金が増えていました」(リョウコさん)

 さらにリョウコさんは、寝ている夫の指でスマホ指紋認証を解除し、電話の履歴を確認した。案の定、夫はその風俗店に何度も電話をかけていた。それに留まらず、『こはる』という風俗嬢とLINEのやりとりもしていたのだ。リョウコさんはその画面を自分のスマホで写真に収めた。

「探偵みたいなことをしている高校時代の後輩に相談したら、『画面の写真は意外と証拠能力あるですよ』と教えてくれたんです」(リョウコさん)



『普通』という病
 しかしリョウコさんは、すぐに夫に詰め寄るようなことはしなかった。せっかく授かった子供。このまま波風立てずに産めば、普通の、幸せな家庭を手に入れることができる。そしてその普通さを彼女自身以上に望んでいたのが、元警察官だという父親だった。父親に孫の顔を見せてあげたい、という思いが、リョウコさんの口を噤ませたのだ。
 学生時代に出会った素敵な男性と結婚。専業主婦になり、30歳までに子供を産み、できればふたり育て、還暦前に子供たちが成人になるのを見送る。郊外に戸建てを持ち、中古でもいいから車を買う。夫の浮気などもっての外。少し夫の親族に苛立たされることもあるけど、日常の幸せを思えば我慢できる……。そんな『普通』への焦り。憧れ。普通であることがコンプレックスだったリョウコさんはいつの間にか、自分が頭の中に描いた『普通』に縛られるアラサー女性になっていた。
 そして妊娠で一時息を潜めていた多くのストレスが、夫の不貞行為によって目を覚まし、静かにリョウコさんの心身を蝕んでいた。
 妊娠7週目を迎えたある日。リョウコさんは、下腹部に違和感を覚えた。たまたまその日は自宅近くの産婦人科医院が休診日で、妊娠初期にはそのような痛みを感じることがよくある、という知識もあった。そして深夜に出血した。初期流産だった。

「おそらくは受精卵の染色体異常によるものと思います。むしろ受精・着床には問題なく、純粋に受精卵の問題であることが明確になります。流産ぐせがついてしまう、という俗説もありますが、流産が次の流産の原因になるというエビデンスはありません。流産を繰り返してしまう人が存在することは事実ですが。ですから、私どもは、可能な限り前向きに捉えるよう、流産してしまったカップルにはアドバイスしています」(李野田医師)
「大切なことは2点。お母さんのせいではないということ。そして、何をしても、阻止できるものではないこと、です」(李野田医師)

 リョウコさんには、すべての治療が振り出しに戻ったように感じられたのだという。もちろん、これまでに積み重ねてきたことが無になるわけではない。もう一度、顕微授精からやり直すというだけだ。しかし、リョウコさんにはそうは考えられなかった。

「病院から泣きながら帰ってきたら、私の血や、赤ちゃんになるはずだったもので真っ赤になったシーツが、そのままになっていたんです。夫は居間でテレビを見ながらスマホを弄っていました。もうすぐ義母が来てくれるから、と彼は言いました。それで私の気持ちは決壊しました。大声で泣いて、泣いて、泣いて……。夫は私を抱きしめました。泣き止んでから、私は言いました。『こはる』って誰?と」(リョウコさん)

 そしてまた親族が参加しての話し合いになった。リョウコさんは内容をよく覚えていなかった。決まったことはひとつ。不妊治療をこれ以上継続しない、ということだった。心身のバランスを崩したリョウコさんは、婦人科の代わりに精神科を受診し、処方された薬は妊娠後期の服用が推奨されないものだった。
 こうして、4年にわたったリョウコさんの不妊治療は、失敗という結果で幕を閉じた。



あれから……今の彼女が思うこと
 そして3年が経ち、現在。36歳になったリョウコさんの夫婦関係は良好なのだという。

「普通であることへのこだわりをやめたら、心のつかえが取れたような気がしています。最近、猫を飼い始めたんです。かわいいんですよ」(リョウコさん)

 『こはる』の件も、夫は認めて謝罪した。内心はともかく一応は許したという体を取り、今でも時々、夫との性交渉があるのだという。『子供が欲しくてではなく、一緒にいたくて結婚した』のだと、夫は言う。

「どこまでホントかわかんないですけどね(笑)」(リョウコさん)
「何事もご夫婦の選択です。不妊治療が明らかにご負担になられている場合は、中止を勧めることも我々の仕事のひとつです」(李野田医師)

 しかし最近、ふと考えることがあるのだという。

「夫には独身の弟さんがいるんです。夫と血液型も同じで。最近、時々、魔が差すような感覚があるんです。私はまだ36で、妊娠できる身体です。夫も不貞をしました。内心でどう思っているかはともかく、子供は欲しいと言っていました。夫との性交渉は今もあります。もしも、弟さんと間違いを犯して子供を妊娠して、それを隠し通せば、何もかも丸く収まるのではないか、と」(リョウコさん)

 まさか、と問うと、リョウコさんは朗らかに笑った。

「いえ、本気なわけないじゃないですか。ただの小粋なココナッツジョークですよ」




※本記事はフィクションです。また、㈱スクウェア・エニックスおよびゲームアプリ『スクールガールストライカーズ』とは一切関係ないファンテキストです。