京都アニメーションへの献花目的で京都へ行ったので、ついでに島原へ行くことにした。
東の吉原、西の島原。いい響きだよな。島原というと、幕末・新選組もののフィクションによく出てくる印象がある。しかし現在は衰退に衰退を重ね、往時の姿を残す建物は数軒しかない。その第一の原因は格式が高すぎたことで、第二は、1851年の大火なのだという。島原のほとんどの建物はこの時に焼失。多くの店は祇園で仮営業したが、そのまま戻ってくることはなかった。
明治になると公家や武家が大枚はたくこともなくなり、古来の芸姑はどんどん数を減らし、娼姑メインの街に。だがそれも昭和33年の売春防止法で止めを刺される。現在、古来の格式高いお茶屋として営業しているのは、「輪違屋」という一軒のみである。
エリアとしてはこんな感じ。最寄りとしてはJR嵯峨野線丹波口駅となる。直前に梅小路公園の京都鉄道博物館と京都水族館を見物していたため、南側から細い路地を抜けて歩いた。
周辺には古めかしい木造建物がちらほら残っている。
それでも基本的には住宅街で、かつての花街の空気は感じられない。
しかし近づいていくと、外からの目線を拒むような道の入り組み方が、完全に遊郭だ。
東の入り口に、今も「島原大門」が往時のままの姿で残されている。
この門は1867年、慶応3年に建てられたもの。実に築152年である。江戸時代来ちゃったよ。
門を潜ればすぐ、ちょっと小洒落た住宅街だ。「花屋町通り」といい、石畳が敷かれている。かつての建物を再利用したようなカフェや、性的サービスがない純粋な銭湯があったりする。
民泊かゲストハウスのようなものにリノベーションされた建物もある。調べてみると、1泊5000円を切る格安で、京町家に泊まれる!と宣伝されていた。
そして通りを一本折れると、いかにも往時のままの建物があった。
この「輪違屋」が現在島原で唯一営業している置屋。マジで現役のなんとか太夫がいるらしい。江戸時代かよ。
出入口のところには「観覧謝絶」という張り紙があった。見学はお断りという意味かな、と思うじゃないですか。これが京都の言葉では、一見さんお断りっていう意味になる。これが京都である。
なるほど…と実感しつつ、”小洒落た住宅街”を見てみると、路地の角のところの住宅にあるわあるわ、例のアレ。いけず石です。これが京都である。
当時のままの建築がもうひとつだけ残されている。
このものすごい格子の建物が、現存する日本唯一の揚屋造りである「角屋」。現在は「角屋もてなしの文化美術館」として一般公開している、はずだが、訪れた時は改修中だった。内部には新選組の残した刀傷もあるらしい。
そして当時のままと思われる遺構がもうひとつ。
島原住吉神社。この神社の前だけは舗装も何もされずに砂利道になっている。何やら揉め事の気配がする。
裏手は駐車場になっているが、その角に神社の飛び地のような敷地が残されている。弁財天が祀られた巨大な銀杏の木は樹齢300年なのだという。これを切れなかったのだろうなあ。
うろうろしている間にも、年季の入った建物が取り壊されている現場に遭遇した。角屋、輪違屋、大門が残っているだけいいと考えなければならないのかもしれない。
以上