65 - 男子校出身者の怨念 ~SSSS.DYNAZENON #2 およびSSSS.GRIDMAN評~

 女子高生は神であり、半径1メートルに女子高生が実在する場所は霊的空間である。

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 SSSS.DYNAZENON #2 を観るに、これこそがSSSS.DYNAZENONおよびSSSS.GRIDMANに貫かれている価値観であり、信仰の根幹ではないかと思う。日常の尊さを活写している、文芸系邦画的なBGM・声優の演技によりリアリズムを追求している、アクションパートとの落差を狙っている、等々と評するのも一面では正しいだろう。だが、明らかにそれだけではないのだ。それだけでは、南夢芽はおもちゃの飛行機で髪を梳かないのだ。

 リアリズムを演出するために最も手っ取り早い手段は、自身の経験をベースにすることである。自分が体験したことであれば、言うまでもなくそれはリアルだ。対象物の細部や、それらを前にした時の心の動きは、経験した者にしかわからない。世に出回るお仕事モノの多くはクリエイター自身の経験を鋳型にしたものだし、コミックエッセイの類はその方法論の極地である。恋愛モノの中にも、半実録的な作品が多いのは周知の事実だろう。私小説は文学の筆頭を占める巨大ないちジャンルであり、テレビアニメの中でもSHIROBAKOのような作品がある。
 だが、経験のコピーから生まれるリアリズムには、感動の限界がある。経験は憧憬を失わせるために、共感の質が変わってしまうのだ。これをクリエイター本人が自覚することは難しいし、よしんば自覚したとしても、経験によって一度剥ぎ取られた憧憬は、どんなに補っても決して元には戻らない。伸びてしまったバネは元に戻らないし、曲げてしまった針金を真っ直ぐにするのは難しい。シミを作ってしまったシャツを漂白しても、元の色味や手触りを失くしてしまうのだ。

 しかし、この世界には、実在しないもののリアリズムを追い求め、感動の限界を超えた奇跡に触れる人々がいる。
 神を信じる人々である。
 信仰とは内的対話だ。神は、実在をもって我々の前に現れることはない。キリストは、あくまで神の子である。しかし、神は実在すると彼らは信じる。信仰を持つとは畢竟、己の中から神を見つけ出す行為といえる。
 せっかくだからレジェンド級クリエイター、ミケランジェロの言葉を引用しよう。

「すべて大理石の塊の中にはあらかじめ像が内包されているのだ。彫刻家の仕事はそれを発見することである。大理石の中には天使が見える。そして彼が自由になるまで彫るのだ」
(ウォルター・ペイター『ルネッサンス』)

 もうひとつ、夏目漱石の『夢十夜』に登場した運慶の言葉を引用しよう。

「なに、あれは眉や鼻を鑿で作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が気の中に埋まっているのを、鑿と槌の力で掘り出すまでだ。まるで土の中から石を掘り出すようなものだからけっして間違うはずはない」

 彼らは、己自身を殺し、本来存在する霊的存在を石や木の中から示現させようとする。しかし、我々は神がいないことを知っているので、彼らのしていることは内的対話であるとわかる。己が仏なり天使なりの姿をどこまでリアルに空想し、具現化できるかによって、彼らは自身の信仰を示している。『信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること(新約聖書ヘブライ人への手紙 11章1節)』である。つまり、彼らは体験という裏づけにすがる必要はない。裏づけは、神を信じることよって既に彼らの内に与えられているのだ。
 体験によらず、その実在を強く信じ、内的対話によって生み出されたリアリズムは、憧憬を失うことはない。むしろ、実在しながらも実在しないものへの憧憬が結晶化したものであり、そこから生まれる限界のない感動は500年の時を越えてもなお、人の心を動かし続けるのだ。

 翻って、SSSS.DYNAZENONおよびSSSS.GRIDMANである。
 SSSS.GRIDMANの第1話を観た時は、文芸系の邦画的なリアリティラインの高い演出に感激するばかりだった。SSSS.DYNAZENONではさらに、磨きがかかっている。たとえば2話の、このシーン。

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 友達におんぶされて走った後、南夢芽は乱れた髪を直す。ここに強い違和感を覚えた。邦画、というか、実写的であるならば、普通こういうシーンはフィルムに残らないだろう。女優の髪が乱れたらそこでカット。間でヘアメイク担当が髪型を直し、次のカットでは元の通りのフォトジェニックに可愛い姿の女優が映る。編集によって映像内の時間が連続するが、実際はカチンコによって割られているし、商業的要求からも、こういったカットの前後は断絶しがちだ。観客も、髪で顔が隠れてしまった女優を進んで見たいとは思わない。レンズの向こうにあるのは幻想だからだ。
 だが、SSSS.DYNAZENONでは連続する。見たい女子高生を確信し、見えない女子高生を確認すると、彼女は乱れた髪を直すからだ。クリエイターが、内的対話によって実在を発見した、信仰対象である女子高生は、髪が乱れれば手櫛で直す。手櫛で直すカットがある方が、腑に落ちる。ミケランジェロが大理石から天使を彫り出して、天使の目鼻を発見するように、手櫛で髪を直す南夢芽を発見したから、このカットが必要になるのだ。

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 同じような、宗教的発見に基づくリアリズムは、シリーズを通じた仕草やセリフ、細かな背景美術の端々に見受けられる。SSSS.GRIDMANなら「昔のパソコンって怖っ」「ごめんだけど」「おまちどさまさまです~」「やっぱ企業案件ってガンガン来るんですか」、リュックサックの中身、部屋に転がるヘアアイロン、等々。SSSS.DYNAZENONならビニール傘、お風呂-タオル-スマホ。枚挙に暇がない。そして何よりこれ。

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 女子高生とおもちゃの飛行機から、信仰によって髪を梳く姿を発見し、絵に起こした。このカットは、まさに現代のピエタ像である。何食ったらこんなん思いつくんだ?(OP絵コンテ・演出 雨宮哲)

 

「いや、信仰はさすがにいいすぎだろう。女子高生の話を立ち聞きしたり、取材したりして、作風に反映させたのではないか?」
 と疑問を持つのももっともだ。だが監督・雨宮哲は、「学校の施設は取材したが、生徒たちは取材していない」という趣旨のことをインタビューで語っている。

――「SSSS.GRIDMAN」では、思春期のキャラクター同士のナチュラルな会話が魅力的でした。実際に学校へ取材にも行かれたそうですが、アクションだけでなくそうしたところにも力をいれようと考えていたのでしょうか。

>雨宮:学校施設の取材はしましたが、生徒さんたちへの取材は基本していません。なんというか、人間の部分は取材してもあまり参考にならない気がして、特別に会話を生々しくしようとまでは考えていなかったです。30分の深夜アニメ番組というのが企画の下地にありましたから、むしろ商売とはちょっと遠い部分にある気がして、そちらに振りすぎてもよくないだろうなと。ただキャラクターについて、グリッドマンや怪獣といったケレン味みたいなものから遠いほうがいいかなとは思っていました。ケレン味から遠いところからはじめて、それが同じ画面に映るのがよいかなと。
雨宮哲監督の「SSSS.GRIDMAN」制作スタイルと“白飯”からはじまった「SSSS.DYNAZENON」 : ニュース - アニメハック

 参考にならなくて当然である。実在する女子高生を写し取っていては、偶像崇拝である。内的対話によって内なる神を示現する宗教的行いからは遠ざかってしまう。SSSS.DYNAZENONは、カトリック教会における、目に見えない神(女子高生)の恵みを示し、それを与える儀式=秘跡*1なのだ。ミサで信徒が拝領する聖体は、キリストの身体の見立てであり、当然ながらキリストそのものではない。しかしその行いによって、神の奇跡の実在が示される。雨宮哲にとって、SSSS.DYNAZENONは、女子高生と半径1メートルに女子高生が実在する空間を象ったアニメーションを通じて、神の実在を示す行いなのではないかと思う。

 さらに大きな事実が、SSSS.GRIDMANのBDブックレットに記されている。雨宮哲は、男子校の出身なのだ。

僕自身、高校生の頃とかに、青春感を押しつけられることがすごく苦手で、「青春=恋愛」とか「青春=頑張る」みたいな某スポーツ飲料のCMとかを見ていると、苦しかったんですよね。男子校に通っていたので、「そんな青春ないわ!」みたいな(笑)。
――SSSS.GRIDMAN BD3巻ブックレットより

 つまり彼は、半径1メートルに女子高生が実在する生活を送ったことがないのだ。自身の体験のコピーではない、体験したことがないからこその憧憬を積み重ね、他に類を見ないほどリアリティに溢れる高校生活を描き出す彼の姿は、み仏を求めて蚤と槌を持つ運慶の姿に重なるではないか。
 ひとつ、思い出すのが、コミックLOの哲学である。LOの作家たちは、(作家にもよるが)リアリティにこだわる。女児の服、女児の身体の発達に異常なこだわりを持ち、実際の女児の姿を、ポルノの枠が許す限り作品に組み込もうとする。これもまた、決して触れ得ざるものへの信仰の形であり、彼らもまた、丸太の中に自らの信じるみ仏を探す仏師に似ている。

 空間、という観点から見ると、他にも腑に落ちるシーンがある。SSSS.DYNAZENON第2話冒頭、オーイシマサヨシによる主題歌『インパーフェクト』が流れる中、ダイナレックスが激しいアクションを繰り広げるところである。
 カメラが、主人公・蓬のいるコックピットを写す。すると、主題歌にエフェクトがかかり、壁越しの音漏れのように聴こえる。セリフと被らないようにするためならば、音量を落とせばいい。だがそうしないのは、ダイナゼノンの中が、女子高生の実在する霊的空間だからなのではないか。
 SSSS.GRIDMANから通じて、日常シーンでほとんどBGMが流れない演出が、SSSS.DYNAZENONの特徴である。これも、クリエイターの信仰を前提にすると、女子高生が半径1メートルに実在する空間にBGMは流れない“から”、BGMなしを貫いているのだと読める。その代わり店内放送は流れるし、セリフに他の人物のセリフが被ることはある。日常シーンでBGMを流すとは、内的対話を経てようやく彫り出した仏にペンキで色を塗るような、信仰への冒涜的行為なのである。
 わかりやすく、壁越しに主題歌が聴こえるシーンを図示しよう。

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 おわかりいただけただろうか?

 女子高生は神であり、女子高生が半径1メートル以内に実在する空間は霊的空間である。未体験のことへの憧憬から想像によって細部の細部まで突き詰められたリアリティは、その信仰の純粋さによって、体験をベースにしたリアリティを上回る感動を与えうる。
 もちろん、脚本や絵に命を吹き込む声優の力もあるだろう。宝田六花役・宮本侑芽は、インタビューによれば、六花を演じるにあたってファミレスで女子高生の会話をひたすら聞くなどの役作りに励んだそうだ。宮本や、彼女に勝るとも劣らない好演を見せる若山詩音の力が作品に貢献したところは大きいだろう。
 だが、男子校出身者の怨念がここまでのものを生み出したことに、私は感動を禁じえないのだ。

 何を隠そう私も男子校出身である。多感な思春期に異性の目線による自己相対化の機会を得られず自我の発達が歪み、異常と個性の区別がつかず人を思いやる心に乏しい男子校出身者である。ホモソーシャルな環境で女性の目線に寄り添うことを必要としなかった名門男子校の出身者が東京大学等の名門に進み、大手企業に就職し、政治・経済の中心に居座り、自己中心的な社会を構築するために子育て支援は進まず女性が働きやすい環境の整備は遅々として進まず少子化は止まらず非婚化が進み国会議員に占める女性の比率は75年前からほとんど変わらないのだ。しかし今や東大生の就職人気ランキング上位はコンサルだというから驚きである。東大生の1/3は男子校出身だが男子校の率は2.2%。そんな生まれつき多様性のない異常集団にコンサルティングされたら国が滅ぶ。男子校亡国論である。何もかも男子校が悪い。我が国の次なる発展のために必要なことは、麻布、開成、武蔵、栄光、駒場東邦などの名門中高一貫校を解体し共学化することである。(うそやで)
 そもそも私がこういった視点を持ったのも、クリエイターと共通する背景のために共感するところがあったからかもしれない。でもどちらかというと、JKより若妻、制服より温泉浴衣が、好きだ。【了】

*1:サクラメント。洗礼、堅信、聖体、赦し、病者の塗油、叙階、結婚の7つのしるし。