93 - 森達也『福田村事件』レビュー

 この記事では題材が題材なので使用することが適切ではない差別用語を使います。ご容赦ください。

 

森達也について

 森達也の作品には、見ているものだけが真実ではない、という事実の相対化がしばしば見られる。彼のスタンスを最も端的に表している作品が、テレビ東京系列の深夜ドラマとして放送された、『デッドストック~未知への挑戦~(2017)』の最終回だと思う。社屋から発掘されたテープ(未確認素材)の真相を追うというフェイクドキュメンタリー仕掛けの作品であり、この最終回は森達也が監督・出演し、題材はスプーン曲げである。この中で、森は「ノンフィクションは、最も巧妙なフィクションである」「フィクションでないノンフィクションは存在し得ない」という趣旨のことを語っている。『デッドストック~』の最終回はこの語りを前提にスプーン曲げが実在するともしないとも取れる作りなのだが、肝要なのは、撮影・編集等の過程を経てオンエアないし劇場公開される作品には必ず作り手の意志が介在し、切り取られ、偏向されるということだ。ゆえに、事実を切り貼りしたものであったとしても、それはフィクションである(かもしれない、そうでないかもしれない)と森は主張する。佐村河内守を扱った『FAKE(2016)』も、事実を伝えるジャーナリズムとは異なる、撮影者のエゴが介入するドキュメンタリーの役割が果たされた作品だったといえるだろう。一方で、オウム真理教を扱い、映像の一部がオウム側の証拠として提供された『A』によって、撮影者である森は題材であるオウムに関与した。森が記録した「事実」は撮影行為による干渉を受けた。参与観察により対象が歪んでしまったフィールドワークの悪例のように。

 森にとって、映像作品(あるいは映像に限らず)は現実への多様な視点を提供するものなのだろう。隠された真実だとか、多くの人が気づいていない悪の暴露だとか、世間一般の認識を否定した上で成り立つ主張から、森の作品は一歩引いているように思える。報道は、事実を可能な限り正確に伝えるもの。ドキュメンタリーは、新たな視点によってその事実を相対化するものであり、同時に鑑賞者に対しては、事実を多様な視点で見つめた上で自身の思う真実に思いを馳せることを要求する。換言するならば、関心を持て、と言っているのだろう。

 では、フィクションなら?

 森達也は、(キャリア初の)「事実に基づくフィクション」をどのように作るのか?

 

■福田村事件

 時は1923年、関東大震災直後の混乱の中、千葉県東葛飾郡福田村で地元の自警団が行商人を惨殺する事件が起こる。当時、「不逞鮮人」が井戸に毒を投げ込む、腐女子を強姦するなどの流言が飛び交い、あろうことか時の政府が朝鮮人を取り締まるために自警団を組織するよう促す勅令を出してしまったために、寒村の村人たちが暴徒化し村を訪れた薬の行商人(日本人。彼らは当時穢多と呼ばれた被差別部落民だった)を不逞鮮人であるとみなして殺害したものである。

 

■映画・福田村事件

 映画の尺はその多くを事件前の日常描写に割いている。福田村には、デモクラシーにかぶれた村長と軍隊経験者からなる在郷軍人会が些細な衝突を繰り返している。ある女は乳飲み子を抱え、東京に出稼ぎに行った夫の身を案じている。またある女は戦争に行った夫が遺骨となって戻り、寂しさを埋めるために船頭の男と道ならぬ逢瀬を重ねている。朝鮮でトラウマを抱えた元教師の男は妻とともに福田村に帰郷するが、男は百姓仕事に四苦八苦し、都会的な妻は田舎に倦んでいく。一方、故郷の讃岐を旅立った行商人たちは、被差別民ながらも逞しく日々を送っている。

 そんな彼らが集団心理に飲み込まれて……というあらすじは、言ってしまえば、あまり重要ではないのだ。なぜなら、それらは(もちろん現存する記録を元にしたものもあるだろうが、)原則としてフィクションだからだ。

 集団から少し浮いていた村人の男は、狂気に飲まれそうになる集団の中で正気を取り戻せと叫ぶ。たぶんフィクションである。都会的な女はリベラルな感性から不逞鮮人扱いされて刃を向けられる行商人たちを庇おうとする。たぶんフィクションである。行商人たちの人物描写も、家族構成などの記録を参照できる部分以外は、おそらくはフィクションである。手を下す村人たちも、裁判資料などを参考にしたのかもしれないが、相当部分はフィクションなのではないか。

 おそらく、鑑賞者はこの映画を観たときに、自分が共感できる人物を探すはずだ。そして見つけた人物は、凶行には加担せず止める側に回ったはずだ。共感し、暴力に訴える人々にも少しだけ納得し、ああ集団心理って怖いね、気をつけようねという感想を持ち帰る。あるいは、悲しい事件である、決して繰り返してはならない、これを隠蔽しようとする政府の歴史修正主義は許せないと怒りを燃やすのかもしれない。すべて、作中に織り込まれたフィクションによって誘導された感情であることに気づくこともなく。

 だが、監督は森達也なのだ。

 共感的に、あるいは義憤によって映画を受容することは、望まれたことだが同時に戒められなければならないことでもある。フィクションのフィルタを通して事実を修正しながら受け取ることは、視点の多様性から遠ざかり、関心を持てという森のスタンスと異なってしまうからだ。

 

イデオロギー化の巧妙な回避

 少しネタバレが増える。

 森は左派と受け取られがちな作家だが、自分はあまりそうは思わない。少なくとも、作品からは何かの集団を代弁する凝り固まったイデオロギーを感じることはない。むしろその逆で、社会正義のためなら多少の無法や不正確は許される、という考えからは距離を置いているように見える。

 本作でもそれは如何なく発揮されており、たとえば行商人に真っ先に刃を振り下ろすのは、乳飲み子を抱えた母親である。現代社会では最も保護されるべき弱者だとみなされ、イデオロギー論争における悪魔化の逆、いわば天使化とも言うべき状態に置かれている存在が、凶行の口火を切るのである。その後は高校球児のような純粋な若者が後に続く。「戦前」を語るときに悪魔化される「軍隊」の表象である、軍服を着た在郷軍人たちは、むしろ腰が引けているほどである。

 一方、被害者である行商人たちも天使化されることはない。穢多である彼らは癩病患者たちを見下し、効きもしない薬を騙して売りつける。「もっと弱いものから搾取しないと生きていけない」という台詞もあったと記憶している。(これが事実だったのかはわからないが、的ヶ浜事件等からわかるような水平社=穢多から癩病患者への差別意識を参考にした創作ではないかと推測した。)そして彼らの中にも、朝鮮人と穢多を比べたら日本人である分穢多の方が上だと考える者もいる。

 極めつけは、作中で穢多の行商人たちが唱和する「水平社宣言」の一節である。

 

兄弟よ、吾々の祖先は自由、平等の渇仰者であり、実行者であつた。陋劣なる階級政策の犠牲者であり男らしき産業的殉教者であつたのだ。ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥取られ、ケモノの心臓を裂く代価として、暖い人間の心臓を引裂かれ、そこへ下らない嘲笑の唾まで吐きかけられた呪はれの夜の悪夢のうちにも、なほ誇り得る人間の血は、涸れずにあつた。

 

 たぶんこのあたりだったと記憶している。特に「ケモノの皮剥ぐ報酬として、生々しき人間の皮を剥ぎ取られ、ケモノの心臓を裂く代價として、暖い人間の心臓を引裂かれ」の下りが、怒りとともに力強く唱和されるのだ。まるで彼ら自身が異質な獣であり、平和な村人が身を守るためには殺すしかない怪物であるかのように。そして、水平社とそれに連なる部落解放同盟が、まるで邪悪な悪魔信奉者の集団であるかのように。

 殺すのは強者ではなく、殺される側も無垢の存在ではない。だから誰か(に象徴される何か)が悪いと主張することもできない。誤解につながるイデオロギー化を、弱者を醜いもののように描いてまで丁寧に排除する。そして最後に残るのが、9人(+1人)が無惨に殺されたという事実と、その事実を伝える役割を担っていたはずの、メディアである。

 

■何が悪いのか

 メディアについては、はっきりと悪に加担したことが糾弾されている。当時の新聞は、凶悪事件が起これば不逞鮮人のせいかもしれないと世論誘導し、時の政府の通達をオウム返しにして不逞鮮人への警戒を煽っていた。ここは、ドキュメンタリー作家として報道とは異なる道を追求してきた森の作家性を感じたところだ。報道・ジャーナリズムはフィクションの介在する余地のない事実を伝えるのが役割であり、ドキュメンタリーの領域である多様な目線の提供の猿真似はするなと言っているかのようだ。

 そしてまた、登場人物すべてにうっすらとした悪が共有されており、「朝鮮人なら殺してもいいんか?」というセリフにそれが象徴されている。行商人たちを庇う善良な人々――観客を共感させる物語を与えられた登場人物も、「彼らは朝鮮人ではない、日本人だ」と叫ぶことで穢多たちを守ろうとする。朝鮮滞在経験があり朝鮮由来の素材で指輪を作り朝鮮式の食事を愛好する登場人物でさえも、日本人だから殺すな、と主張するのである。

 たぶん、「朝鮮人ではないから殺すな」とは、法なのだと思う。当時の朝鮮人たちは日本人たちへの激しい憎悪を抱えており、いつ暴発するかわからないとは事実であり、警戒することに正当性はあったのではないか。もちろんそれは、すべての朝鮮人を悪魔化することを正当化しない。だから「朝鮮人はすべて殺せ」とは正しくないが、一方で、「朝鮮人はすべて生かせ」もまた正しくなかったのだ。これらの葛藤の結果、はっきりと引ける線=法が「朝鮮人ではないから殺すな」になったのだろう。

 法は、すべての苦しむ人を救えるわけではない。そしてすべての苦しむ人を救えるほど、法が器用になることはできない。隙間を埋められるかもしれない思想として作中では社会主義が提示されるが、「やがて民主主義は社会主義に取って代わる」と主張する人物が処刑されることでそのイデオロギーからも作品は距離を置く。この作品の制作費を募るクラウドファンディングはロシアによるウクライナ侵攻の後に実施されており、(大正12年のインテリはともかく)まさか本当に社会主義がすべてを救うと考えているわけではないだろう。

 肝心なのは、事件に至るまでの物語が与えられ、観客が共感し、リベラルで現代的な価値観によって穢多を庇い、倫理的に善の側に立っている登場人物たちにさえも、悪の属性が付与される点である。作品と森は、彼らを通じて、彼らに共感してしまった現代の観客たちさえも断罪してみせるのだ。

 もしも同じ場所に身を置いたとして、「朝鮮人ではないから殺すな」という、コンセンサスの取れた規範≒法をもって説得を試みる以外のことが果たしてできるだろうか。コンセンサスの取れない規範あるいは絶対的な倫理を振りかざしても解決に繋がらないことは、社会主義者の処刑に象徴されている。

 そもそも、行商人たちを庇った人々は、実在していたのだろうか? 彼らの存在はフィクションで、止めようとしたのは村長と巡査だけだったのではないか? 観客が自分を投影した人々は現実の中には存在しえず、すなわち我々もまた、己の生活を守るために必死で農具や包丁を振りかざす群衆の一人であることから逃れられないのではないか?

 そして映画が最後に突きつけるのは、2時間以上スクリーンを見つめていても、事件のことを何一つ知らないという絶望である。

 

■今、我々はどうすべきなのか

 最終盤では、生き残った行商人の少年が、自警団に殺害された人々の名前を口にする。彼らの名は劇中でほぼ発せられることはなく(発せられたとしても強い訛りに飲まれて聞き取れない)、物語から退場してようやく彼らには名前が与えられる。福田村事件のことを知っており、政府の態度を歴史修正主義と糾弾していても、死者の名前すら我々は知らないのである。映画のうちどこまでが明らかな事実で、どこまでがインタビューや裁判を通じて残った記録で、そしてどこまでが創作なのかすら、はっきり線を引くことができない観客が大半だろう。作品は、森は、観客を叱るのだ。関心を持て、と。

 かつては現代よりも苛烈だった部落差別も、流言に踊らされて殺人まで犯す集団心理の恐ろしさも、朝鮮人差別も、何もかもどうでもいいのである。関心を持ち、事実に対する多様な目線を得て、自分の正しさを疑う。ドキュメンタリー作品から本作まで通じる森のスタンスは、特定の社会集団を支持も肯定もしないし、もちろん代表もしない。事実への関心を持っているかという、個人への問いかけなのだ。

 

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